見出し画像

日本史のいわゆる最新の研究成果に関する問題点と、織田信長や三好長慶の再評価

「新しい」ことは「正しい」とは違うという点

 歴史の話が語られる時、よく何々説は古い、何々とするのが新しい説だという言い方がなされる場合がある。大抵の場合、新説だから正しいのだという主張をしようとする意図が、その言葉の裏には含まれている。しかし、新しいことは、正しいこととはまた別の話であって、学説となると、新説は現時点で説得力があるかどうかが検討され、それから受け入れられるかどうか、さらに新事実の発見によって修正される可能性がある、という話になる。日本史分野での一例を見てみると、室町時代や戦国時代についての研究分野で、1970年代から80年代にかけて今谷明氏が提唱した学説を挙げてみることが出来る。応仁の乱以降、室町幕府は管領を務める細川京兆家による専制状態となり、後に三好長慶が足利義輝を追放し幕府を倒して三好政権を確立し、その後で義輝との和解によって幕府を復活させたという、「京兆専制論」や、幕府を前提としない三好政権の独自性、といった説を打ち出した。当時は室町幕府が研究者の関心をあまり引くこともなく、応仁の乱以来衰微を極めた、といったような雑な説明で片付けられていた状況だったため、今谷氏の説はセンセーションを巻き起こしたようである。その後検討が進むにつれ、どうも室町幕府は意外にしぶとく、織田信長に滅ぼされるまでそれなりに役割を果たし続けていたようだ、という方向性の研究が有力となり、室町幕府や細川家の研究が大きく進んだ。専制政治と言えるかどうかの見方はともかく、エキセントリックな言動で室町幕府が混乱する元をつくった細川政元の重要性や、室町幕府の枠内であるにしても将軍義輝が朽木に動座した時に京都で三好長慶が政治を行っていた時期があったことは確かであり、さらに室町時代や関連事項について多くの研究を行なった今谷昭氏の業績は、今もなお先行研究として重要な役割を担っている。新説というものが、全肯定されたり全否定されたりせずに、その後の学術研究が発展する出発点として貢献した好例と言えるのではないかと思われる。ただ、新説が学説として受け入れられるかどうかは内容がしっかりしたものである必要があり、ただ単に新説を唱えればよいというものではないことは、私が言うまでもなく皆さん分かっていらっしゃることであろう。

歴史の本をめぐる問題

 ここでなぜこのような話をしているかというと、いつの頃からか、大雑把にまとめると、歴史学者が最新の研究成果に基づいて実像に迫り従来のイメージを覆す、といった具合の紹介文が付いている一般向けの本が目に付くようになってきたことがある。人気向上やイメージ作りといったことは本来、政治的宣伝あるいは娯楽のための作品を作る際に行われる。このような、受け手の思考を目的の方向へ向けようとすることは世論誘導や印象操作であり、イメージを作って楽しむのは娯楽の類であって、これらは「政治家」あるいは「作家」のすることである。これらと同じような事を、本来なら実証主義的な立場で史料収集と史料批判をして歴史を客観的に叙述する役割を担う「歴史学者」がしようとするのは、もはや学術研究成果の発表とは言えないのではないだろうか。さらに、流行りなのかどうか、歴史上の人物について、高度成長期に作られた人物像に問題があるといった論調で司馬遼太郎を批判し、ライバル視したり敵視したりしているように思えてならないような論説を目にしたことがある方もおられると思う。学界の重鎮に対して批判的な意見を表明する、というのなら学術的な話として理解出来るのだが、歴史を扱っている大作家とはいえ、小説家という分野が違う人物を学者がライバル視するのは御門違いだとしか言いようがないのではないか。このような状況では、作家や歴史家その他、学術的な研究成果の利用者である立場からすると、概説なり詳しい解説なりの参考図書を利用しようにも手頃な文献が無い、という状態になり、困ってしまうのである。何々の全てと本の紹介に書かれているが、最後まで読んでみても結局は何の本なのか分からなかった、あるいは、解説書を読んでも筆者の意見が書かれているだけで、著者が違うと同じ事件について異なった意見が書かれている、または、本来学術書籍として出すべきで一般向けの本の内容になっていない、といったことが起きている。原因としては、自分の意見は論文にして学会なり学術論文誌にまず発表すべきところ一般書に解説であるかのように書く、学界で議論が尽くされていないのに結論が出ているかのような書き方をする、一般向けのシリーズに学術研究者に向けて発表すべき内容を書く、といったあたりであろうか。背景となる事情は複合的で単純に一つだけということはないだろうが、憶測を述べてみるならば、研究者の業績評価をする際に論文や学術書に加えて一般書まで業績として数えることも一因となっているのではないか。参考文献として使いにくい本ばかりという状況は、歴史に関係する文章の書き手のみならず一般読者にとっても少々困りものなのである。
 作家なら原文史料を読んで自分の思った事を書けばよいではないか、と言われればそれまでのことで、古文漢文は学校ですでに習っているのであるから後は慣れ次第と言われるとそれもまたそうなのであるが、史料を探すのもなかなか面倒なところがあるのも正直なところである。ただ、慣れてくると、同じ史料の中で、学術的な興味を引く部分と、小説のネタになりそうな部分が違っているといった場合があったりするので、今度は史料を直接読んだ方が早いという気がしてきたりするのもまた、事実ではあるのだが。考えてみれば、司馬遼太郎は学界の動向も把握していたが、学者のうち特定の誰かの説を取り入れているという印象は無い。司馬遼太郎が作品を発表していた当時は、皇国史観への反動で唯物史観に勢いがあった時期だったが、イデオロギーや史観を用いないという自らの立場を述べている(例として水戸史観を取り上げた『手掘り日本史』所収「史観というフィルター」文春文庫1990年、単行本昭和四十七年六月毎日新聞社刊)。膨大な史料を読み込んでいたと言われているが、そうならざるを得ない事情もあったのかもしれない。「反司馬遼太郎史観」というものがあるのではないかと疑いたくなるような現在の状況下でも、歴史を調べる場合は一般書に頼らず学術論文と史料を黙って読むしかないということになるだろうか。

 いずれにせよ、歴史上の出来事や人物に対する評価や意味付け、謎の部分を推測するといったことは古来、歴史家や作家がやるべきことであるので、「歴史学者」には中立的な立場から、一般社会が活用しうる良質な資料を提供する役割の方に重点を置いて頂きたいと願っている今日この頃である。

幕府に関する新説など

 鎌倉幕府の成立期を描いている今年の大河ドラマにも関係してくる話だが、新しいとされる説の一つに、全国に守護・地頭を置いたことを理由に鎌倉幕府の成立が1185年であるというものがある。しかし、鎌倉幕府の成立は1192年にすべきである、というのは自分が昔そう習ったからという理由からではなく、中世史の分野で行われた或る論争が根拠で、私が「河内の国飯盛山追想記」に登場させた「堺公方府」に関わる話が理由となっている。これも今谷明氏の仮説が発端となったものであるが、1970年代に今谷明氏が室町時代の戦国期に発給された文書の一部が足利義維勢力によるものであることを発見し、堺に幕府が存在したとする、いわゆる「今谷明の堺幕府論」を提唱した。その後の論争で、征夷大将軍となった者の政権でなければ幕府とは呼べないという方向で話が落ち着いた。就任していない義維の政権は幕府そのものではないことになったが、実質的に幕府として活動していたことは認められるので、堺に何らかの政権が成立していたことは確認された。新説が論争を経て完全な否定はされずに発展する例となり、今谷氏の説は、形を変えてその後の学術研究に影響を及ぼすことになった。その結果からすれば、中世史の分野において、将軍による政府でなければ幕府ではないとされた以上、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍となった1192年とされるべきであろう。そもそも、1185年を何かの時代区分として用いたいのであれば、1185年は源氏の軍が壇ノ浦で平家を滅ぼした年であり、こちらの方が歴史上の大事件とするのにふさわしいであろう。ちなみに、1185年説よりも堺幕府の論争の方が、新しい、はずである。

 話がそれて申し訳ないのだが、近頃、「幕府」という言葉は明治維新以前には使われていなかった、という話を見聞きすることがある。何を根拠にそのような話が出てきたのか調べたことは無いが、明治維新以前に幕府という言葉を使っている文献の存在は、簡単に確認出来る。

 鎌倉時代の文献を挙げてみると、吾妻鏡に源頼朝が征夷大将軍になった時の記述がある。大日本史料4編4冊116頁建久3年7月12日1条「臨時除目、前権大納言源頼朝を征夷大将軍と為す、二十五日。勅使中原景良、同康定、鎌倉に至る、頼朝、三浦義澄に命じ、勅使を鶴岡八幡宮に延きて、除書を拝せしむ、」の部分に、

「廿七日、丁酉、将軍家令招請両勅使於幕府給、於寝殿南面御対面、有献盃、」

という記述がある。大日本史料総合データベースの該当箇所はこちら。

 時代が下って江戸時代の文献を挙げてみると、江戸時代初期に成立した、徳川家康の駿府隠居後の記録である「駿府記」がある。史籍雑纂第二所収の「駿府記」慶長17年3月の部分に、江戸幕府のキリシタン禁教政策に影響を与えた収賄事件である、いわゆる岡本大八事件についての記録が出ている。江戸の将軍秀忠の下から派遣されてきた役人について、幕下、幕府という言葉が書かれている。

「廿一日、幕下於加護鼻令竹越山城守放鉄炮而御覧、其玉目五十目、三度同坪之放、其遠十三町云々、今日幕府近侍之衆大久保右京、同主膳、鳥井讃岐等数十人、為大御所御目見、今日岡本大八自獄中出之、府内渡之、於安倍川原火罪、見人如堵、召板倉伊賀守、南蛮記利志旦之法、天下可停止之旨被仰出、於京都彼宗之寺院可破却云々、是夷狄之邪法、而乱仏法之正理故也、大八修理傾此宗故、今及此儀云々、長谷川左兵衛賜御暇、下向長崎云々、」

史籍雑纂の該当箇所は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。

 これらの記述だけ見ても、明治維新まで幕府という言葉が使われてこなかったなどと言い出したのは一体誰だと言いたくなるのは、私だけではないと思われる。

歴史上の人物に対する再評価について

 話を戻して、新しいとされる学説あるいは最新の研究成果とされるもののうち、私が「河内の国飯盛山追想記」で採用しなかったものに、従来悪人とされてきた日野富子の再評価というのがある。これに関しては、従来とは違う評価が示された新史料が出てきたということもなく、一般読者向けの本に史料に基づかない長い理屈が書いてある話と言ってよい。そもそも日野富子の人物像といったことはイメージの話であって、学術的な議論をする程の事なのかという問題もある。悪人であるという根拠となる代表的な史料の例としては、大日本史料の文明9年7月是月1条に挙げられている、大乗院寺社雑事記七月廿九日の記述がある。大日本史料データベースの該当ページはこちら。

 これを始めとする多くの史料に基づいて、本当にろくでもない人物、という表現は学術的ではないので、日本三大悪女の一人という評価がなされてきたと表現しておけばよいか、ともかく、重税を課して徳政一揆を起こされるような人物のイメージをわざわざ変えようとする目的とは一体何なのだろうか。いずれにしても、根拠となる新史料が学術論文の形で提示されることもなく、一般人向けの本に主張だけが書かれているという話は、学術的な研究成果と呼べるかどうか疑問であり、私自身は賛成することが出来ない。

 再評価という動きに関しては、最近は織田信長の再評価というのが最近流行しているようで、革新的とされてきた信長が実は保守的だったとの主張がある。話の出発点は、「天下」という言葉が信長の時期には五畿内を指していた、という説で、これについての問題点は以前の記事で指摘した。

 学術的には説を採用する人としない人がいるといった動きにとどまり、反対者から反論が出る様子もなく、賛成者は検討を加えずに結論だけ書き写しているといった様子になっている。事の始まりは学術論文だが、新書で紹介されて一般読者の間に広がったという経緯があるためか、学術的に論争するのが面倒といった雰囲気があるのではないか。確かに実際の問題として、以前の記事を書いた時、複数の反証を挙げるだけでも面倒極まりなく、途中で嫌になってくる程、書くのが大変だった。最近、一部の学者の間で信長の業績を矮小化しようとすることが流行っているようで、天下の意味を五畿内に限定する説もその一つらしい。そして、持っている意味が違う二つの言葉を、同じ意味の言葉であるかのように扱おうと無理をしたことが間違いの元になったと言える。信長の矮小化をやられると、信長に先立つ天下人、という紹介の仕方をされることが多くなってきた三好長慶が小物みたいになってしまうのでこちらが困るではないか、という理由で反対しているのではなく、新しい説が妥当なのかきちんと学術的に検討して頂きたい、という話である。私自身は、三好長慶を織田信長とは分離した説明をしているので、この問題は織田信長以降の話をする際に関わることになる。

 ここまで、新しい説を否定する話をしてばかりだが、三好長慶に関して、「河内の国飯盛山追想記」で描かれる長慶像は、従来の「下剋上の梟雄」像ではなく、最近の研究によって明らかにされた三好長慶の再評価に従ったものではないか、との指摘があろうかと思われる。しかし、私が描いた長慶像は、参考文献に挙げておいたが、吉川弘文館人物叢書の長江正一氏による「三好長慶 新装版」の、次の記述が元になっている。

p1はしがき「この書は、長慶が、京摂という有利な舞台で、自己を主張しながら、相手の権威を尊重し伝統を護持して、衰頽の極に達している将軍・管領の保全に努め、中世から近世への転換期の世に、花々しく活動して指導的役割をはたしたが、壮年で波瀾に満ちた生涯を閉じたことを述べたものである。」

p136本文「時代はまだ久秀・信長の如く殺伐でなかったとも見られるが、下克上の標本のようにいわれる長慶は、自己の権益を主張する以外は、案外、伝統を尊重した律義者であった、といえる。」

 私の手元にあるのは新装版だが、第一版第一刷の発行は1968年(昭和四十三)となっている。今谷明氏も参考にしたというこの本にあるように、昭和に書かれた内容が現代でも通用するという例もある。他の部分で修正が必要な点があることを、否定出来ないこともまた事実ではあるが、一々新しい説を唱える必要の無い場合もあるということを一言付け加えておきたいと思う。


自著紹介

 新しい説も、取り入れることが出来るものは取り入れてあります。

阿牧次郎著「河内の国飯盛山追想記」(アメージング出版)

Amazon

楽天ブックス

三省堂書店 Yahoo!ショッピング店

三省堂書店 店舗注文用バーコード


毎度サポート頂きましてありがとうございます。