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居心地いいが心地悪かった


脱出を繰り返すことになった理由

ふと、かつての自分の状況を振り返るゆとりが出てくる。
それだけその時の状況から距離が取れているんだと思う。

客観的に眺めていると、そのときの状況をシンプルな言葉で表現したくなる。
それは、そのときのことを自分に腹落ちさせたいからなのだろう。

最近私の中に浮かんでは消えていた言葉。

それが、
〝居心地いいが心地悪かった。〟
ということ。

かつての私は、自分の置かれた荒んだ環境から脱出しようとした。

何度も何度も。
子どもの私なりに。

その痕跡は自分史の至るところにある。

でもなかなか身も心も両方が離れるというところまでいかなかった。

なぜなのだろう?

その答えを一言で表現するなら、

〝居心地いいが心地悪かった。〟

これに尽きる。

家を出るのは大冒険だった

もっと掘り下げると…
心地いいと思って、この心地よさを維持したいと思った瞬間から、違う苦しさが生まれた。

これは今までいたところと違う。
違いすぎる。

いいけれど、馴染んでいるわけではない。

いいところにいると、今までのところは自分にとって何だったのか?と問いたくなる。

居心地悪かったの?
とんでもないところだったの?

この思考の先にあるのは、それまで私がいた環境の全否定。

全否定すれば、そこにいた自分すらも全否定するような気がしてしまう。

そう、全否定する可能性を背負った上での心地よさなのだ。

結局心地いい感じがしなくなって、慣れたところに戻っていく…。

そうして私は何度も心地よくない世界に引き戻された。

そもそも本当に心地いい場所なんてどこにも存在しないさ。
だからどこにいても同じ。
自分の気の持ちよう。

自らにそう言い聞かせて自分から戻っていったこともあった。

心地いいところに出ていくこそが、機能不全家族の元で育った私にとって、大きな大きな冒険だった。

結局家から距離を置くというだけのため、相当長い年月を費やした。

まだまだ回復の途中

学校も好きな場所とは言えなかったけれど、家よりマシだったから通えていたと思う。

もしそんな本音をいま親に暴露しようものなら、おかげで通えたならよかったじゃないか、感謝しろ、と言われるのがオチだろう(似たようなオチに至った過去アリ…汗)。

事あれば、感謝させ服従させる材料を見つけるのが常套手段。

なぜ目の前に現れた心地いい場所にすぐ飛び込めなかったのか?

時が経ち、そう振り返ることもあるが、それだけ心地いい場所と心地悪い場所との間には大きな溝があり距離もあり、挑むことは大冒険だった。

他の国での生活が大変と思ったことはほとんどなかった。

そのときはその理由がよくわからなかったけれど、今思えば、他国での生活以上に、育った環境は私にとって過酷な条件が揃っていただけだった。

今は自分の居心地いい空間を確保している。
そして、最近は、心地いいものが目の前に現れたとき、すかさず手に出来ることも増えた。

遠慮がちだった私かけれど、周囲から心地いいものを提供されたら、これまでよりも積極的に受け取ることが出来る気がする。

ついこの前の旅行でも、ちょっぴり罪悪感が出てきたけれど、伸び伸び過ごせたっけ。

まだまだ回復の途中。
でも進んでる。心地いいほうへ。


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