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ショートショート『スイマー on the ボラード』

 ボラードに乗っているのだ、スイマーが。

 ボラードとは車道と歩道の間に等間隔で並んでいるポールのようなアレである。時にはこちらに警告し、時にはさらりと景観になじみ、ほろ酔い気分の帰り路に、軽快にタッチしたくなるアレである。太さ、高さ、形状、色彩、模様、多々あれど、あれらは全てボラードである。なぜボラードの説明をしたか。私も今しがたコレの正式名称を知ったからである。

 つい先ほどのことである。国道沿いのボラードにスイマーが乗っている。最寄りのコンビニから1人暮らしのマンションへの通い慣れた道を歩いていた最中、歩道側に体を向けボラードに乗るスイマーに遭遇してしまった。私は右手でさしていた傘をレジ袋の把持に専念させていた左手に移し、濡れてしっとりしたスラックスの窮屈な右ポケットからスマホをつまみ出した。晩飯のチキン南蛮弁当と500mlの缶ビールを入れたレジ袋が左手首を圧迫する。痛い。

 目の前のボラードにスイマーが乗っている。グラブスタートの体勢で。スイマーが自らを濡らす直前に見せる、収納に適したあの折り畳まれた体勢で。もみあげ以外全ての髪の毛を仕舞い込んだ水泳キャップ、眼球を保護するため顔の肉にキツく食い込んだ水泳ゴーグル、下腹部からももにかけてピッタリとフィットした男性用競泳水着。どれもこれもコンマ1秒タイムを縮めることに人生を捧げたスイマーのそれである。盛んに降る雨は、大きく曲げたスイマーの背中からうなじへと淀みなくつたい、終着点の顎から地面へ垂直にぽたりぽたりと滴っている。ボラードの底面は人工的な平面で、あたかもスイマーが乗ることを前提に設計されたかのように、収まりがよく美しかった。

 スマホを向けるがスイマーは動じない。謎だ。このスイマーは何を成し遂げるためにここにいるのだろう。陸スイムという新競技が生まれたのだろうか。それとも斬新な野宿だろうか。はたまたボラードの上で待ち合わせた恋人でもいるのだろうか。

 夜の国道沿いのボラードに乗り、飛び込みの姿勢を保つ勇敢なスイマー。ただ一つの違和感は、恐怖で強張ったその顔である。至極当然だ。スイマーの目の前には、投げ出したその身を優しく受け止めてくれるプールは存在しない。あるのは、雨水を含みひしゃげたハイライトの吸い殻と、湿って黒く変色した堅牢なコンクリートである。飛び込む道理など無い。

 その時一台の車が国道を通り、スイマーが激しく照らされる。スマホ越しにその姿を見た私は、ようやくその正体に気がつき、肉眼でその存在を確かめた。

 これは私だ。15年前、国際大会の代表選手選考会のスタート台に立つ私そのものであった。大会の1週間前にイップスに陥り、水泳を始めて以降、実家のベッドよりも安心してその身を委ねてきた競泳プールが、触れると摩擦で容易に皮膚を傷付けるコンクリートのように変貌して私の目に映っていた。目の前にいるスイマーの表情は15年前の私の表情であった。

 あの日のことを思い出したのは何年ぶりだろうか。あの日、結局飛び込むことができず、それ以来水泳からは距離を置いている。私は過去の自分へスマホを向け、親指でシャッターを切る。すると焚かれたフラッシュと同時にスイマーの太ももは隆起し、華麗なフォームで目の前の歩道へ飛び込んだ。不意に切られたスタートに私は狼狽え、濡れたスマホを滑り落とす。勢いよく身を投げ出したスイマーの肉体はコンクリートをすり抜け、忽然とその姿を消していた。落ちたスマホはコンクリートへ強く打ち付けられ、蜘蛛の巣状にその模様を変えた。

 別にあの日のことを後悔していたわけではない。水泳を離れても今は幸せに暮らしている。未練があるかと聞かれても、きっぱりないと答えられる自信がある。何を今更。割れたスマホで撮った写真を確認すると、そこにはフラッシュが雨水に反射し輝く、1台のボラードだけが写っていた。修理が必要なスマホをポケットに戻し、すっかりタルタルソースが寄ってしまった弁当を並行に直すと、私はスイマーが乗っていたボラードを左手でちょんとタッチし家へと向かった。手のひらについた水滴をスラックスでごしりと拭うと、また弁当が傾いた。

わざわざ読んでいただいてありがとうございます。 あなたに読んでいただけただけで明日少し幸せに生きられます。