走る快楽とは 〜岡本かの子「快走」〜

 夜風を浴びて気持ちよく走っていると、ふと「快走」を思い出すことがあります。

「快走」は芸術家、岡本太郎の母としても知られる岡本かの子の短編小説です。青空文庫で10分弱で読めるのでぜひご一読ください。現代文のセンター試験に採用されたことでも有名ですが。

 戦争の影が忍び寄る中、女学校を卒業して初めての正月を迎えた道子は、両親に内緒で銭湯に行くふりをして夜の多摩川で走ることに悦びを覚えます。

 戦時中の女性は、家事や仕事で辛苦に絶えない生活が続いていました。そんな中、和服を脱ぎ捨て月明かりを受けて走ることは、奇抜ながらも開放的で爽やかさを感じさせます。鳥籠から出ていくような。けれども、走るといずれ疲れ果ててしまいます。

次第に脚の疲れを覚えて速力を緩めたとき、道子は月の光りのためか一種悲壮な気分に衝たれた――自分はいま溌剌と生きてはいるが、違った世界に生きているという感じがした。人類とは離れた、淋しいがしかも厳粛な世界に生きているという感じだった。

 鳥は、いつかは鳥籠へと帰らなければならないのです。

 しかし最後には道子の両親も娘のあとを追って走ることに快楽を覚えます。これは救いではないでしょうか。世界が窮屈で息苦しいのは道子だけではなかったのですから。人間が自由を憧憬する姿が、戦禍の影にはあったのです。


 戦後80年近くたった日本は、おおむね平和と呼べるでしょう。しかし、そこに住む人々ははたして自由を謳歌できているのでしょうか。

 自転車に乗った塾帰りの女子高生。手を繋いだ20代のカップル。健康維持のためかランニングに勤しむごましお頭の男性。夜に濡れたアスファルトの上を軽快に走っていると、実に多様な人間とすれ違います。きっとそれぞれ思い思いの人生を辿ってきたのでしょう。けれども視界に留まるのは一瞬で、次々と景色とともに流されていきます。何も私を引き止めるものはないのです。どんな過去も、いまも、置き去りにできる。

 仕事にしろ学校にしろ、多くの人が一日中固定された環境での活動です。怱忙と退屈が混在した毎日。走ることは、そのような窮屈な世界に少しのゆとりを与えてくれるのです。

 趣味はランニング、と口にするとなぜ苦しいのに走るの、と訊かれることがあります。私は「タイムを縮めるのは達成感があるから」と答えますが、それは真意の半分です。走るのが多少速くなったところで、外部の世界に何の影響も及ぼしません。けれども、自分の観測しうる世界は、走ることでめまぐるしく変えていくことができるし、外部からの干渉を遮断することもできるのです。

 どうせ走り続けると疲労が溜まって現実に引き戻されてしまうのですから、ランニングのせいで自分だけの殻に閉じこもってしまうことはないのです。外の世界に影響を与える行為に心酔するのも悪くないですが、たまには頭を空にして駆け出してみてはいかがでしょうか。幸い、現代の日本では、夜でも月明かり頼りということはないのですから。

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