【感想】チグリスとユーフラテス / 新井素子

こんばんは。
青井在子です。

最初に断っておきます。
この感想は文章を書くことが好きだったはずが、ふと気が付けばいつの間にか苦手になっていた筆者が書く、支離滅裂で行き当たりばったりなごく個人的な感想です。しっちゃかめっちゃかです。考察なんて露ほどもできていません。それでもうわーっとなったので書いたものです。

※以下、ネタバレです。※

ルナちゃん、憎んでごめんね。

この小説を読み終えて一番初めに、素直に浮かんできたのがこのことばだった。
正直なところ、このたった一言さえすぐには見つからなかったのだけど。

―ルナへの怒り、そして畏怖―

遠い未来、地球からの移民政策が失敗に終わった惑星ナイン。
独りぼっちで暮らしているナインの“最後の子供”であるルナちゃんが、コールド・スリープに就いている人たちを目覚めさせていくところから物語は始まる。

あるときからナインの住民たちは生殖機能を失って人口はどんどん減少していき、ナインで生まれた“最後の子供”であるルナは、永遠に子供であることを押し付けられたまま七十代になっている。
フリルとリボンをふんだんにあしらった服を着て、舌足らずに話し、自分のことを“ルナちゃん”と呼ぶ、白髪の老婆に。

ルナちゃんはこの物語のなかで、四人の女性を起こす。
ルナちゃんの実の母親の親友であった、マリア・D。
マリアよりも百五十年ほど前の時代に惑星管理局員として働いていた、ダイアナ・B。
ダイアナよりもさらに百年ほど前に、画家として活動し真の“特権階級”として暮らしていた、関口朋実。
そして惑星ナインの母、レイディ・アカリ。

最初の三人はいずれも病や怪我を抱えており、治療法が確立された遠い未来を夢見て眠りに就いていた。

しかし文明滅亡の危機に瀕したナインには、もちろん彼女らが望んだ治療法はなく、眠りに就く前に宣告された残り少ない余命をルナとともに過ごすことになる。

最初、“子供”であるルナは、寂しさの余りマリアを起こしてしまったのだと、無邪気で悪気のない行いだと思っていたし、惑星でたった一人で生きることを確かに可哀そうだと同情もしたのだが、
(それでもいかにも甘やかされた子供というような、わがままで自己中心的な発言には苛立ちを覚えたが)

眼前に死が迫ったダイアナは、ルナの目に知性が戻るのを目の当たりにする。
ルナが本当に“何もできない・何も知らない”子供であったのなら辻褄が合わないことがあると、気が付いてしまったのだ。

そしてルナは真実を告白する。

望んだわけでもないのにナインの“最後の子供”になり、永遠に子供でいなかればならなかった不幸を、
“最後の子供”が生まれてしまった以上、それまで命を繋いできた前人たちの人生には意味がなかったということを見せつけるために人々をコールド・スリープから起こすのだと。

それまでルナを気味が悪いけれど不運で可哀そうな老婆だとだけ思っていた印象がガラリと変わり、彼女に対して怒りと、そして畏怖を覚えた。

マリアもダイアナも戸惑いながらも、
(また他のコールド・スリープに就いている人間のためにはルナを殺したほうがいいのではないかと悩みながらも)
子供であるルナの遊びに付き合ったり、無茶をして怪我をしないように咎めたりと、慈しんでいた。

特にダイアナは職業柄ということもあるが、自分の死後のルナの生活のことまで考え、ナインの生活環境(電力や食糧事情など)の調査にまで出かけているのである。

それにも関わらず、ルナは最初から復讐をするために二人を起こしていたのだ。

自分が不幸であるから誰かを不幸にしなければ気が済まない、という勝手な理由で二人を目覚めさせ、死へと追いやったルナに対して怒りを覚えた。

そしてその怒りは、ルナの次の言葉で畏怖へと変わる。

「ルナちゃんのことを、勝手に、子供だから莫迦だって思ったのは、マリア姉さまやダイアナ姉さまの方よ。
ルナちゃんは、その誤解を、正してあげなかっただけ。」

このルナの台詞が正しく思えたから余計に怖く感じたのだと思う。
いくら言葉遣いや立ち居振る舞いが子供っぽくても、七十年の人生の中で社会を見てきているはずだし、いわゆる普通の大人ではなくとも、生きていくためにはいつまでも子供でいられるわけはないのである。

それをマリアもダイアナも、そして読者である私自身も勝手に、“最後の子供”であるならそうこうこともあるのかもしれないと、ルナが大人になれなかった無知で無力な子供のままであると思い込んでしまっていたのだ。

だけどダイアナは感情を爆発させ激昂するルナの姿を見て、怒りではなく悲しみを覚えた。
怒り狂うルナが、年のせいで弱弱しかったからだ。

そしてダイアナはルナを抱きしめようとする、が叶わず、残された命を振り絞り、万感の思いを込めてルナの名を呼びながら死んでいく。

自分の不幸に酔い痴れ、過去に得られなかった幸福の未練を引きずるあまりに、目の前に差し出されている愛情に気づこうともしない、もしくは気づいているのに受け取ろうとしないルナが、私はそれでも憎らしかった。

―関口朋実という、理想の生き方―

ダイアナの次に起こされた関口朋実は、宇宙船に乗ってやってきた地球生まれの先人の血を受け継ぐ、真の特権階級の人間だった。

彼女はマリアやダイアナと違い、自分を叩き起こしたルナの存在を頑なに無視をして、ひたすらに絵を描き続けた。
その絵が完成したらルナを殺害することを心に誓って。

ルナにとっては直接非難を受けるよりも無視をされることのほうが応えたらしく、
(なんといっても“最後の子供”なのだから、これまでルナを無視する人間なんて一人もいなかったのだ)
私は正直、朋実に一番の共感を覚えたし、なんならもっとやれ、とも思った。

彼女のルナに惑わされることのない強さに好感も持った。
だけどルナは、狡猾だった。

自分のことには関心を持ってもらえないと判断した彼女は、朋美が無視できないものは何かと考え、それが朋実がかつて描いた絵たちだと推測する。

そしてその推測は正しかった。
美術館に展示されているはずのお気に入りの絵たちが、ナインの文明の滅亡に伴い危機に晒されていると告げられた朋実は、もはやルナの言葉と存在を無視することはできなかった。

しかし思惑通り朋実の関心を引けたはずのルナは、激昂することになる。

――絵が駄目になるなんて当たり前のことで傷付くんじゃない。

そう言ってルナは怒るのだ。

芸術の永遠性に縋っていた朋実はそれを否定され、一度は絶望するものの、
かつての自分と父親との記憶を思い出す。

真の特権階級であるがゆえに、朋実は子供の頃からあらゆる得をしてきたし、それと同時に周りから贔屓をされていると妬まれることも多かった。

小学生の頃に描いた絵が賞を獲ったときにもクラスメイトに嫌味を言われて悩んだ経験があった。
そんな朋実に父は語ったのだ。

「“贔屓”問題がある以上、朋美が絶対に信じられるのは、そして信じていいのは、自分の感覚、それだけだ」
「贔屓問題がなくったって、ある程度以上主観的な問題に関しては、信じていいのは、自分だけだろうしね」

そして朋実は思い出す。
自分で満足のいく絵が描ければそれで自分は幸せなのだという、単純なことを。

朋実はいつか芸術は朽ちてしまうことも、だからこそ芸術を続けてきた自分の人生にいつかは意味が無くなるのだというルナの言葉もすべて受け入れたうえで、

だからなに?

とルナに問いかける。

このシーンは私にもあることを気づかせた。
それは最近の自分が文章を書くことを心から楽しんでいないことだ。

もともと文章を書くことが好きで小説やブログを書き始めたはずなのに、最近は思うような評価を受けれないことばかりを気にして、どうやったら面白いと思ってもらえるようなものが書けるのかということばかり気にかけていた。
(もちろんそれも大切なことではあると思うのだが)

その結果、かなり文章も発想も制限されていたように思うし、文章を書くことを好きだっていう気持ちは覚えているけれど、楽しいとはあまり思えなくなってしまった。

現にこの感想も書きたいことはあるのに思うように書けずに苦しんでいる。

だから一旦、読んでくださっているあなたのこと(もしもいるのなら)のことは忘れる。
高校生のときのほうがよっぽど上手く読書感想文なんかを書けていたと思うけど、そのことも忘れる。

これからは自分が文章を書くことを楽しみ、そして自分が満足できるような文章が書けるようになることを目指そうと決めた。

「それに何だって、人生に意味が必要なのよ」

何度となくあなたの人生に意味はないのよという言い方で攻めてくるルナに、朋実はきっぱりと言い返す。

死んでしまうからこそ、意味のある人生を送りたいとときどき思う。
だけど突き詰めて考えると、意味のある人生っていったい何なのだろう。

子孫を残すこと?
歴史に名を残すこと?
誰かを愛すること? 救うこと?

だけど私が残した子孫も愛した誰かも救った誰かもやがていつかは死ぬし、
長い歴史だって地球が滅亡してしまえば終わりだ。
これは極論だと思う。こんなことを言ってしまったら元も子もないと思う。

だけど要するに、死の前ではどんな行いも、無意味なのだ。
客観的に見れば。

だからやっぱり朋実や彼女の父が言うように、
主観的な自分自身の満足が一番大切なのだと思う。

他人から見たらなんて意味のない人生を送ったんだろうと思われるような人でも、その人が心から自分の人生に満足していたのなら、

もう意味なんかなくったって良くて、
それはその人の幸福なのだと思う。

だからひたすら自分の好きなことをやってやってやり倒して、そして自分の人生に満足して死んでいく朋実の人生は、まさに理想的だった。

最後の最後、朋実は憎んでいたはずのルナを庇って死ぬ。
そこで二人は通じ合い、今までルナの心を覆っていた硬い殻のようなものに、罅が入る。

その殻は、朋実が人生の最後に描いた絵を見たことによってパラパラと剥がれ落ちていく。

魔女の姿をしたルナの絵。
その絵のルナは怒っている。

その怒りは自分が最後の子供であることや自分を残して他の人間が全員死んでしまったことに怒るのではなくて、七十年という長い人生のなかで、朋実のように好きだと言い切れる何かを、一つも見つけられなかったルナ自身へ向けるべきなのだと。

そしてルナは次にコールド・スリープから目覚めさせる人間を、(恐らく)もともと予定していたのとは別の人に変えるのだった。

―創世の神が繋ぐもの―

ルナが最後に起こしたのは、ナインの創始者の一人、レイディ・アカリ。

ナインの住人にとって伝説上の神様であるレイディ・アカリをルナは驚かすつもりもなかったのだが、それでも長い眠りから突然起こされたレイディは、目を開けた瞬間からルナのすべてを受け入れたのである。

これまでの物語のなかでレイディ・アカリは、地球からやってきた人間でありながら、ほとんど現人神のように語られているが、それまでに登場するメインキャラクターの四人の誰よりも、親近感が持てる人物だった。

灯はごく普通の女子高生(普通というには肝が据わりすぎている)が希代のスーパー宇宙飛行士の妻となり、挙句は他の惑星に移民をするために地球を飛び出し、新たに発生した社会の統一のために神様にまで仕立てあげられたのだった。

……仕立て上げられたとはいえ、実際にその役目が務まってしまうのだから、やはり普通ではないか。

灯がルナの話を聞き、ナインの現状を理解したうえで取った行動は、ルナをナインの“最後の子供”ではなく、“最初の母”にしてしまうというものだった。

確かに人類の惑星間移民は失敗に終わったが、それでも地球からやってきた草花や動物が根付いているなら移民計画の完全な失敗とは言えない。
文字だけ見れば問題のすげ替えのようにも感じるが、

灯はルナに他者の愛し方や、日常の中に日課というものを教え、与えた。

一方的に愛されることしか知らなかったルナは愛猫を愛するようになり、
ずっと閉じこもっていたCMCを出て歩き、灯とともに畑を耕す。

その生活のなかに、ルナは確実に幸せを見つけているようだった。

灯とルナはいわば教師と生徒のような関係になるのだけれど、ルナは決して教わったことしかわからないような生徒じゃなかった。

そこがこの小説で、一番好きな部分であり要素かもしれない。
読んでいるなかで初めて心からルナを愛し、尊敬すらできた瞬間かもしれない。

ルナがずっと追い求めていた

「どうしてルナの母親はルナが“最後の子供”になると分かっていたのに、ルナを産んだのか」

という問いの答え。
イヴ・ママがとっくに死んでしまった今となってはもう誰も知りようのない答え。

レイディ・アカリを起こしたとき、きっとルナは彼女のことを人間というよりは全知全能の神のように思っていたはずで、だからママ本人しか知りようのない答えさえも、レイディ・アカリの口を通して聞けると期待していたのではないだろうか。

だけど実際のレイディと過ごしてみると、彼女は穂高灯というただの人間の女性で、尋ねてもママが本当に意図していたことは、この人だって知らないんだってどこかですっと線を引いたのではないだろうか。

そして何度もひとりで繰り返していた問いと答えに、灯の発言や考えがプラスされ、結局はルナが自分で答えを出した。

「人生は生きるに値するものだから。その人生を、子供にプレゼントするために」
だから例えどんな状況で妊娠しようと、子供を産むのだと。

「そして多分、レイディはルナちゃんに教えてくれる。どんなものであっても、人生には楽しいことが一つや二つはあるって。
どんな人生だって、自分で探さなきゃ楽しいことは見つけられないし、見つける気になれば、きっと幸せはどこかに隠れているって。
いつまでも子供でいること、永遠の子供であることがルナちゃんの不幸の根源であって、
ルナちゃんは、自分で生き甲斐を探せる、“大人”って生き物にならなきゃいけないってことを」

このルナの台詞が堪らなく好きで、目の奥が熱くなったので思わず唇を噛んだ。
どんな人生にだって楽しいことはあるし、それは自分で探さなくちゃいけない。
そんなニュアンスの言葉はこれまでにだって何度も聞いたことがあるし、
聞くたびに「あーはいそうですか」って思うくらいに、私はドライで、人生がそんなに楽しいものだとは思えていなかったのだけど、

これは全然違う。なんかもう、重さと自分のなかへの入り込み方が全然違う。
同じことを言っているのに響きがまるで違う。
それはたぶん、灯ではなく、ルナが言ったからだと思う。

灯が言葉で簡単に伝えられないと行動で示してきたことを、ルナが学び、そして出た答え。

子供っぽい意地悪さと復讐心からマリアを起こしたルナが、いつの間にか大人になっている。

自分がいかに不幸せかを見せつけるだけじゃなくて、他人の不幸を受け入れて、そして自分の幸福も見つけている。

ルナの過去は何一つ変わったわけじゃないのに、そのなかに幸せを見つけられるようになっている。

そして灯さえも、ルナの言葉に救われるのだ。

「あんたが“最後の子供”なら……あたしの人生、勝ちだったよ。
ナイン移民は勝ちだったよ。」

灯の人生も、灯の夫であり、移民船の船長であり、ナイン建国の父であるキャプテン・リュウイチも。
惑星間移民に骨を折った他のクルーたちも。
ナインで生まれた人々も。
マリアもダイアナも朋実も、すべてルナに繋がったのだから。

感極まった灯に抱きしめられたルナは空を漂う、二つの光を見つける。
それはいつかダイアナと共にナインの空へと離した、
蛍のチグリスとユーフラテス。

いや、もしかしたら彼らではないかもしれない。

だけどその点は無数に増え、そこに地球から来た生物が根付いたことを示す。
人類では無いとしても、新しい惑星で新しい何かが始まろうとしている。

そしてね、ラストシーン。

誰もいない宙港。
一つの土饅頭と、枯れたリースたち。掘りかけた穴。そのそばにある死体。

この、二行。
読み終えた瞬間に感情を表すための言葉の一切を失ったのはこの二行のせい。

切ないでもない、悲しいなんかじゃない、うれしいのかな、
感動しているのはわかるのだけど、なんて言ったらいいのかわからない。
そんなふうに半ば混乱した。

一つの土饅頭は、先に旅立った灯の墓。
枯れたリースたちは、ルナが灯の墓前に備えたもの。
掘りかけた穴は、次の野菜を植える準備をしていたのだろうか。
そのそばにある死体は、――ルナのもの。

ナインでの人類が滅んだあとの、その静けさが聞こえてくるよう。

ルナは再び一人になっても灯に与えられた日課を続け、
そして幸せを感じた場所、灯のそばで最後を迎えた。

彼女は、自分の死期を悟って宙港へ向かったのだろうか。
それともいつものように日課をこなす彼女のもとに、突然死が訪ねてきたのだろうか。

ついにこの惑星からは人間がいなくなり、歴史は誰にも記録されなくなる。
人生の意味など考えもしない生物が生まれて増えて死んでいく、ことを繰り返す。

その始まり。

例えばもしも人類が滅ばなければ、ナインの環境はずっと人間の管理下に置かれただろう。
制限する存在がいなくなったことによって、いわば虫かごの扉が開き、
そこからあらゆる生命が飛び立ちって広がっていく。

惑星の新たな始まり。
虫かごの扉を開けたのは、ルナ。

人間から次の生物の世代への橋渡しをしたのは、ルナ。

誰にも記録されないけれど、彼女はある意味で灯と同じように創世の神となったのだと思う。

そう。だから、ルナちゃん、憎んでごめんね。と言いたくなるのである。
彼女は憎んでいたはずの灯や、ルナを遺して死んでいった人たちの思いを繋ぎ、彼らの人生に意味をもたらしたのだから。

……纏まりの無い感想になったけれど、とりあえずここまで。
マリアのエピソードがかなり衝撃的だったので、いつか個別に感想を書けたら、と思う。


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