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クオリアに嫉妬

フォローしている人たちの文章、おすすめされる文章を読んでいると、たびたび嫉妬する。
どうしてあんなにキレイな言葉を紡げるのか。
どうして思わすクスっと笑ってしまうのか。
どうしてこんなに心に訴えかけるような強いメッセージを書けるのか。

文章に心を動かされても、変な意地がはたらいてスキを押すのをためらう。
「どうせ、noteに書くためにわざわざネタを拵えたんでしょう?」とか、
「本当はそんな日ごろからキレイなこと考えてないやろ?聖人がすぎるわ!」とか、いろんな心のヤジがきこえてくる。

しかし、ぜんぶ嫉妬だという自覚ははっきりあるので、直後に「はぁ、しょうもな自分…(笑)」と我に返ったのち、「とてもおもしろかったです…」とスキボタンを押す。

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自分にはない、みんなの感性がとても羨ましい…!
自分には見えない世界が見えること、自分には聞こえない音が聞こえること、自分にはつかめない気持ちの機微が感じとれることが、妬ましいほどに素敵だ。

本人たちは、特に意識することなく、知覚したことを自然と言葉にしているだけなんだと思う。
いや、もしかしたら言葉にするときに、ものすごく表現を吟味している人もいるかもしれない。

いずれにせよ、最終的にアウトプットされたその言葉・その文章は、もととなる語彙や感性、世界観がその人のなかにあるからこそ表出できる。

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「クオリア」という概念がある。脳科学とか哲学とかの言葉で、「主観的な感覚・意識・体験」と説明されるらしい。
「『ギラギラ』という言葉の持つ響き」「失恋で心がズキズキ痛むあの感じ」「夕焼けのあの色味」みたいな、主観的に体験される様々な質感だ。

私が好きなのは「逆転クオリア」の話。
同じ物理的刺激に対し、異なるクオリアが体験されている可能性を考える思考実験だ。

たとえば、同じ赤色に相当する周波数の光を受け取っている異なる人間は、同じ質感を経験しているのか? ひょっとすると全く違う質感を経験しているのではないか?という問い。

つまり、2人の人が同じ「赤いリンゴ」を見たとき、2人に見えている色は全く同じだろうか、という問いだ。
仮に違う色が見えていたとしても、それを証明する術はない。各々にとってはそれが「赤」だからだ。

この問いは「考えるだけ無駄」と言われてしまえばそれまでなんだけど、”違う色が見えているという可能性を否定しきれない”というところに私はワクワクする。

感性や価値観が違うと、それが原因でコミュニケーションに齟齬が生じたり、人間関係に不和が起きたりする。それゆえ、一般的に「感覚が違うこと」はネガティブなイメージを抱かれやすい。

けど、自分の隣にいる人が、自分とは違う世界を見ているとしたら。なんだか好奇心をそそられるし、羨ましさすら覚える。
今の技術ではその「世界」を追体験することは叶わないのが、なんと悔しいことか。
だから、その人が発する言葉・態度・行動だけがその人の「世界」を知る手がかりだ。


noteでみんなの「世界」を疑似体験して、今日も「ムキーッ!」と嫉妬しながらスキを押す。

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