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「老害」は未来の自分への呪いになりはしないだろうか

「老害」という言葉を聞くようになって久しい。
この言葉にはどこかイヤな印象を抱く。
それは老害と呼ばれるその人に対してではなく、この言葉をむやみに使うことに対してだ。

たしかに、旧い価値観を押しつけてトラブルをもたらす人間を非難したくなる気持ちは理解できる。その人が強い立場にいて、その立場をふりかざすほど、復讐心も増すだろう。
「老害」は、そんなときにスパッと吐き捨ててやれる言葉として”便利”だと思う。

しかし一回立ち止まって考えたい。
怒りや憎しみに任せてむやみに「老害」と口にするのは、未来の自分へ呪いをかけることになるかもしれない。




「老害」とは「老人による害」と説明される。果たして”老いと害”には関係があるのかどうか。
その人は本当に「老いているから害をもたらす」のか。「害をもたらした人が年を取っていただけ」ではないのか。
その害の本質は、旧態依然とした考え方を強制し、ほかのアイデアを認めようとしない頑迷さにあるはずだ。

むやみに「老害だ!」と非難する世間を見ていると、〈老い=害〉というイメージが無意識のうちに取り込まれてしまわないか心配になる。

ある日、私たち自身がその「老害」になる(なってしまう)かもしれない。
年を取るにつれて、新しい知識や流行、価値観を取りこみ、受け入れることが難しくなるかもしれない。

自分の時代には常識だったことが、ものすごいスピードで新時代の非常識になっていく。
それでも「私は価値観をすぐにアップデートできるよ?」と自信をもって言えるだろうか? 私はちょっと自信がない。
「新時代の価値観のほうが正しそうな気がする」と理性ではとらえていても、感情がそれを認めようとしないという瞬間が来るのではないかと思う。

そんな葛藤のなかにいるとき、若者たちから「老害」と非難されたら、一体どんな気持ちに苛まれるのだろうと想像してしまう。
非難されなかったとしても、自らが若いころに散々言い放った言葉は、年月を経て自らを苦しめるのではないだろうか。
自分の価値観が時代遅れだという自覚があれば、その言葉はなおさら重くのしかかる。




「逃げ恥」のゆりちゃんのセリフを思い出す。

今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。
自分がバカにしていたものに自分がなる。それって、辛いんじゃないかな?

「老害」という言葉を使うのは、それだけリスクのあることだと思う。

だから、「老害だ!」と思う人に出会ったら、一度だけでもその人の考えやバックグラウンドに歩み寄ってみることが大切なのではないかと思う。
「それでも分かり合えない!」という結論に至るケースがきっと多いとは思うが、シャットアウトするのはそれからでも遅くない。
少なくとも〈老い〉と〈害〉は分けて考えるべきかなとは思う。

自分が「老害」になってしまったかもしれないとき、若者からどんな振る舞いを受けたらお互いに穏やかでいられるか。
そういう視点で行動できたらいいなと私は自分に言い聞かせている。

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