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天に唾吐く愚か者

天に唾吐く。
まさしく愚者の象徴として用いられる言葉である。
だが、果たして天に、ああそうだ、あの天に唾を吐きかけるのは、本当に愚者の行いであろうか?

否。断じて否である。
  
  
その少年が、初めて天に向かって唾を吐いたのは6才の夏だ。
何故だか理由はわからない。
彼の親しんだ祖父が亡くなったことへの怒りかもしれない。
あるいはもっと単純に、子供らしい好奇心ゆえだったかもしれない。

ともあれ確かな事に、彼はその日天に唾を吐いた。
ああしかし、無常なるかな万有引力。
彼の吐きあげた唾液は、一寸と上る事なく彼の鼻頭を打った。
「フフフ、お空に唾なんて吐いても、自分にかかってしまうだけですよ」
母親が彼の顔を拭き優しく諭す。周囲の人々はその微笑ましい光景を見てニコニコと笑っている。

その少年だけが笑わない。
彼はしっかりと上空を見据え、再びそこに唾を吐き、そして再び自身の唾を顔に受けた。

その夜、少年は家族の元から消えた。誰もが彼は誘拐され、殺されたものと信じ、嘆いた。誰が知ろうか。これこそが人類史上最大の事件の始点であったなど。
  
それから35年。夏。
彼は再びその地へ立っていた。初めて天に唾を吐いた因縁の地へと。
その躯の隅々まで刻まれた深い傷跡。潰れた片目。失われた左脚。

故郷を出た彼が向かった先こそは、人ならぬ人の里、鬼ならぬ鬼の里、風魔。地上最強の血縁的忍者軍団に、彼はその執念のみを武器に入党を果たした。故郷を出てからの彼の歳月に、修行と血闘で塗りつぶされぬ日は一つと無い。

何の為に?

見よ。彼が大きく息を吸う。
聞け。大気の歪む音を。
木の葉はさざめき、水は波立つ。彼の身体は風船の様に膨らみきった。

硝子が砕けるような音と共に、彼は今こそ再び、天に唾を吐いた。

渾身の力で噴出された唾液は一条の線となり、忽ち余人の目に見えぬ高みに辿り着く。その行方を確認できるのはもはや彼の超視力のみ。

唾液は雲を見下ろすまでに昇り尚、その速さを損なわない。
ああ!何たるや!!その唾液がみるみる内に、液体からまるで金属の如くに硬化してゆくではないか!

瞬く間にそれは槍そのものの形状となる。
これこそが、彼が風魔で痛め削り改造しきった肉体と、
一千年の昔から伝わる秘伝の薬物を合わせて得た魔技
『巌烈唾液槍』。

槍は雲を超え、空を見下ろし尚上昇する。
その先にいる存在こそはッ!!

そうだ、35年の昔に自らに唾を吐いた少年を嘲笑ったもの。
そうだ、悠久の長きに渡り、我々人類を嘲笑い続けたもの。

彼の放った執念の矢は、遂にYHVH、「神」の脳天を打ち貫いた。
彼はそれを見届けると、満足そうにニヤリと笑い――
一言だけ呟くと群集の中へと消えていった。
「神は死んだ」と。
  
――後のニーチェである。

(おわり)

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