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家族を愛せなくても

血のつながりってなんでしょう?

親、兄弟、親戚…。

父と母がいてくれたから自分はこの世に生まれてくることができた。

そして育ててもらった。

確かにそれは事実です。

でもそこに重きを置きすぎると自由でいられません。

「家族だから」というだけでその関係性に縛られてしまうと、本来の自分を発揮することができない。

そんな人が多いなぁと感じます。


きのう、とあるグループセッションに参加しました。

そこには10名ほどの人たちが集まり、みんなで悩みをシェアしあうというものでした。

カウンセラーが参加者の悩みを聞き、アドバイスをする。

それを他の人たちは黙って聞くというスタイル。

そこで出てきた話題の大半が家族に関するものでした。

・兄弟を好きになれない。
・両親を喜ばせられない自分が悲しい。
・子供を愛せない自分はおかしいのか?

これらの悩みの根底にあるのは

家族だから愛さねばならない。

という思いです。

果たしてそれは本当のこと?

家族ってそんなに大切なもの?

自分の本当の氣持ちを曲げてまで関係を保たねばならないもの?

私は違うと思います。

私の考える家族とは

本当の自分に氣づかせてくれる一番身近な存在。

近いがゆえに摩擦や衝突も多くなるけれど、だからこそ

私はどうしたいのか?
私はどうありたいのか?

を徹底的に教えてくれる相手です。


私たちはこの世に生まれてくる前に、今世でどんな学びをしたいのかを決めてきます。

そしてその課題に取り組むのに最適な両親を選んで生まれてきます。

兄弟や親せきというのもまた同じで、彼らの存在は自分の解析度を上げるためのひとつのファクターでしかありません。

これは「自分の外側は内側の投影」と言われるもので、「周囲にいる人たちはみな自分の内側にあるものに氣づかせてくれる存在」というのと同じ意味。

だから「自分とは合わないなぁ」と感じる相手がいたら、

その人のどこがイヤなのかを探り、それは自分の中にも同じものがあるから反応しているんだということに氣づく(共鳴する部分がなければ何も感じません)。

それだけで問題の半分は解決します。

後は、その人の中に見た自分のキライな部分を認め受け入れていく。

そういうことをひとつひとつ繰り返していって私たちは本来の自分に還っていきます。


ただここでみなひっかかってしまうのがその相手が「家族」になった途端、ホントの自分の思いを引っ込めてしまう。

相手が会社の上司や友人などの他人であればその場を離れたり、関係を切ることはできても、それが「家族」となると「話は別」というのです。

別じゃない。
同じです。

じゃあなぜ同じにできないか?

そこには
「家族」は特別、という偏った思いがあるからです。

生んでくれた恩、生んだ責任、同じ一つ屋根の下で育ったという情が、そこに簡単に割り切れない思いをのせてしまうのです。


私自身、家族と共依存関係にどっぷり浸かっていたので、家族を特別視してしまう氣持ちはよく分かります。

そこから抜け出せなくてずいぶんと苦しみました。

そんな時にメンターに言われた言葉が

「家族はね、昔の学びやの友。小学生のころ仲よかった友達と同じで、あの頃は楽しかったね。ありがとう。以上。でいいのよ」

でした。

それを聞いたとき

「えっ⁈ そんなんでいいの?」

と思ったと同時に氣持ちがとても軽くなったのを覚えています。


家族でも「合う、合わない」は普通にあります。

それはあなたが悪いのでも相手が悪いのでもない。

ただ「合わない」。

それだけのこと。

それを「家族だから」というだけで

愛さねばならない、ということはないのです。

あなたの苦手なその人が他人であったら、あなたはどういう関係性を持ちたいと思いますか?

その人を愛せないからといって罪悪感を持ちますか?

私たちは家族に対して重い思いをのせ過ぎです。

もっとドライでいいのです。

ドライとは決して「冷たい」ことではなく、相手と自分との境界線がきっちりと引けている関係性のこと。

家族を一人の人間として見られたとき、ようやく私たちは自分の人生を生き始めることができると感じています。














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