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2000字小説「これが始まり」


◇風太



ぼくと美香の始まりは運命だったと思う。
雨が降った秋の日の午後、曇り空の下をぼくは喫茶店の向い側に立って、店を出入りする人を眺めていた。ぼくは来るべき人が来るのを待っていた。
だけど、その日はとことんついてない日だった。朝からずっと待っているのに、待つ人が来ない。
ただ立ち尽くすぼくに、散歩中の大きな犬がすれ違いざまに吠えたてる。ぼくは本当に犬が苦手で、体を震わせて嫌がったのに、飼い主は素知らぬふりで通り過ぎていった。
昼過ぎからは雨が降り始めた。傘なんか持っていなくて、灰色の空から落ちて来る雨は頬に当たると冷たく、落ち葉が散った木々は寒々しい。冬の到来に、やりきれない気分になった。
それに、朝から何も食べてないせいでひどく空腹だった。温めたミルクだけでもいいから、口にしたい。喫茶店からは良い匂いがする。暖かそうな店内に入りたかったけど、お金はない。
空腹のあまり、めまいがして、ふらりと座り込む。うう、もうだめか。そうあきらめかけた時、ぼやけた視界の片隅で、ぼくはとうとう光り輝く人影を捉えた。
それまでの人生の不幸は、この奇跡のためだったに違いない。
まさしく女神だった。喫茶店のドアがゆっくりあいて、白いワンピースを着た美香が、花柄の傘を広げながら、ゆっくりと出てきたのだ。
ぼくが顔をあげるのと、彼女がこちらに気づくのは、同時だった。
 「あっ、」と美香は小さく声をあげて、こちらに駆け寄った。小さなバッグからハンカチを取り出して、傘をこちらに差しかけてくれる間、ぼくはずっと、彼女の潤んだ瞳を見ていた。
吸い寄せられるような、透き通った、その瞳。
ぼくが待っていたのは、きっとこの人だったのだと確信した。
「風太といいます。あなたのそばに居させてください。」
そう告げると、彼女は、驚いた顔をして、小さく「ふうた……?」と呟いた。
この瞬間、世界には、見つめ合う美香とぼくの2人しかいなかった。
程なくして、ぼくたちは一緒に暮らすことになった。
これは運命的な出会いだった。間違いなく。ぼくは彼女を手放すつもりはない。




◇美香


風太くんとの出会いは、本当に偶然だった。
 あの頃、私は上司との社内恋愛がうわさになって、しかも上司には奥さんが居たから、毎日オフィスで冷たい目線を浴びて、息苦しくなって、辞表を提出したばかりだった。会社を辞めると、その上司からの連絡も一切途絶えて、ああやっぱり、私は捨てられたんだな、と思った。それなのに彼のことが忘れられなかった。
あの雨の日、仕事がないからすることもなくて、昼間から喫茶店でぼうっと過ごしていた。この先どうしよう、そんなことを取り留めもなく考えながら。
そんな私が隣に座っているとは夢にも思わないのだろう、近くのテーブル席の女の子2人が声高にサークル内恋愛のうわさ話をしていた。この近くの大学に通う子たちのようで「浮気とかマジあり得ないよね」と盛り上がる。私もこんな風に同僚たちにうわさされているのだろうか。涙がこみあげてくるのを、天井を見上げてこらえて、私は席をあとにした。
雨空と同じように、私の心にも分厚い雲が広がっているようだった。
喫茶店から出て、傘をひらいたとき、向かいの茂みにある何かを見つけた。近寄ってしゃがむと、段ボールの中から小さな声が聞こえた。

「にゃー」
毛を雨に濡らして凍えた子猫が、こちらを見上げて鳴いていた。
ハンカチを差し出して、拭いてやると、灰色の子猫は私の手に頭を擦り付ける。警戒されていないどころか、すっかり懐かれてしまった。
この子連れて帰っちゃおっか、そう思って、段ボールをよく見ると、マッキーで「風太」の文字があった。いっちょう前な名前がつけられてるんだ、この子。
それよりも、「風太」。私を捨てた彼の名前と一緒。
なんて偶然だろうか。くくく、と笑う私を、風太くんは不思議そうに見つめていた。やがて、私は小さな猫を抱えて、立ち上がった。
捨てられちゃったもの同士、仲良くなれそうだね。

雨の日のカフェの前。
これが風太君と私の始まり

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