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【薬物記】幻覚キノコでヴィーガンに

遠い過去の記憶。
1人、山奥の安いコテージを借りた。
人里離れた自然の中で、幻覚キノコを食べ、瞑想に耽る、そんな計画を立てた。
結論から言うと、その後1ヶ月ほど肉が食えなくなった。
その時のお話です。

きっかけ

“突然、麦畑がバッハを奏で始めたんだ。あんな素晴らしい体験は初めてだった。麦畑のバッハで、指揮者になった気分だったよ。” 出典:『スティーブ・ジョブズ

これを読み、私は思う、これになりたい。

しかし、人気が無く、安全にトリップ出来る麦畑の場所に心当たりもないので、人里離れた山奥のコテージを予約し、キメる事にした。麦畑が歌うなら、山や森だって歌うだろう、という勘案である。

山奥キノコ瞑想

当日14時、チェックイン時間、受付でコテージの鍵をもらい、従業員から一通りの説明を受ける。
私はこれから始まるトリップへの期待で頭がいっぱいで、説明は全く入って来なかった。コテージまでの長い道のりをてくてく歩く。

コテージに着く。持ち込んだ食料を冷蔵庫にしまう。カバンを置き、コテージ内外を物色する。外の小さいガーデンチェアに腰かけ、横のテーブルに水とロキソニンを等間隔にならべた。15時頃で、ぬるい日当たりが丁度良い。そしてキノコを4つ食べた。

座禅を組み、時を待つ。
しかし、トリップへの期待感に由来するアドレナリンが溢れ、座禅に集中できない。ふと目を開けて、水やロキソニンの位置を微調整し、満足して目を閉じるも、またすぐ目を開け、何らかの微調整を始めてしまう。ここが禅道場なら警策で撲殺されている。

ここからの幻覚話は退屈なので、夜まで時間を飛ばす。語るに足る幻覚話は特にない。
ちなみにオーケストラは無かった。かわりに雅楽のようなものが聴こえていた気がする。

夜。コテージは玄関だけ明かりが灯してある。部屋を暗く保つのは、瞳孔が散大しているため。家の中はこれで充分見える。

窓から木々の揺らめきを見る。
夜の森は想像以上に不気味でやかましい。
葉ずれの音、獣や虫の音、色々聴こえるが、耳鳴りなのか幻聴なのか判断が付かない。

腹が減り、食事をしようと思い立つ。冷蔵庫を開け、豚肉を手に取ろうとした瞬間、脳に電撃が走って、思わず悲鳴をあげた。

そこにはかつて命だったものが、この地球の何処かで確かに暮らし、生きていたらしい、1匹のブタが。それが恐怖の中、殺され解体され、パッケージングされているという事実。死骸の背後に潜む、生々しい情景が、思うとも無く頭に流れ込む。

普段、肉屋に並ぶ肉塊を見て、肉の由来を偲ぶことなど無いが、この時ばかりは違った。そのブタの性格や、屠殺された瞬間までもが、強制的に連想されるようで、食欲が一気に減退する。

例えば、冷蔵庫を開けて、突然ネコの生首が目に入ったら腰を抜かすだろう。そうした驚きであり、この夜は実に冒涜的な気持ちで過ごした。

翌日、醒めた状態で肉を見るも、まだ何か血生臭いものを感じ、食べるを断念。
次の日も、そのまた次の日も、意識的に肉を避け、ひたすらジャガイモとパスタを摂った。

妙な憂鬱がしばし続く。脳の報酬系が逝ったか、と不安を感じ、ふと思い出す。そういえば肉を食ってない。

スーパーで豚肉を買い、帰って炒める。もう豚の悲鳴は聴こえない。
こんがりした死骸をフライパンからつまみ、そのまま食べる。
噛むたびに報酬じゃぶじゃぶ、全身にエネルギーが巡り、視界がパッと明るくなる。動物性タンパク質の喜びを、心ゆく限り享楽した。

人は生きる為、食わねばならない。
しかし感覚過敏で見る世界は想像を絶していて、多少鈍らせなくてはホラーがすぎる。

様々な学びがあったトリップでした。
最後に、リチャード・ドーキンス博士『遺伝子の川』から、私の好きな一節を引用して終わります。

“もし自然が優しいのであれば、せめて芋虫が生きたまま食われる前に麻酔をするぐらいの小さな譲歩をするだろう。だが、自然は親切でもないし、不親切でもないのだ。苦痛に反対でも賛成でもない。いずれにしろ、自然はDNAの生存に影響をおよぼさないかぎり苦しみには関心がない。” 引用:『遺伝子の川




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