23. 築地から勝鬨越しの島の月
土と藁は、べちょたれ雑炊の食材というだけではなく、清八が言うように日本建築の土壁を作るのに必要な材料でもある。竹や藁、土、木などの自然素材は、人に優しい建築材料として見直されている。
23.築地から勝鬨越しの島の月
土壁の作り方は、まず竹や藁などで土をつける下地になる格子を組み、これに土と藁すさを混ぜた荒壁土を塗っていき、荒壁が乾燥したら少し目の細かい土と砂と藁すさを混ぜた中塗り土を塗り、さらに乾燥させたあと漆喰で仕上げをするという順番になる。手間隙がかかるのであるが、耐火性能や断熱性能にも優れ、調湿効果もある。脱臭効果や化学物質の吸着性能もあり、遮音や吸音性も良い。最近の新しい住宅建築にも化学物質を含まない自然素材として土壁が使われ、その良さが見直されているという。建築の「築」の字は、竹・土・瓦・木で出来上がっているという話を聞いたことがある。林業育成や自然素材の活用という観点から、木造で大規模な建築を作る動きも増えてきている。「築」の字は土を突き固めるという意味もあって、土木的な側面も持合わせている。東京に「築地」というところがあるが、水面を埋め立てて土を固め地面を築いたことが伝わる地名である。
1657年(明暦3年)の江戸の大火のあと、焼けた浅草の西本願寺別院の代替地として埋め立てられたところが今の築地本願寺の場所である。そのあとも寺院や墓地が作られ寺町としての風景ができあがっていった。幕末から明治にかけては近くに外国人向けの居留地ができ、旧築地市場のあたりには1868年(慶応4年)日本最初の洋風ホテルも出来上がった。1923年(大正12年)に関東大震災で日本橋にあった魚市場が全壊した後、震災復興計画の一環として仮設市場から10年ばかり経って築地に市場が移ったのが1935年(昭和10年)である。この築地の東南に月島という場所がある。築島とも言われていたらしい。やはり埋立地である。築地の埋立地ができた頃には、その先の海には、佃島と石川島という小さな島があるだけだったが、1892年(明治25年)に「東京湾澪浚」計画に基づいて佃島と石川島を大きく拡張するような形で埋め立てられたのがこの月島である。隅田川を挟んだ対岸の築地との間には渡し船が通っていた。昔を知っている人から見ると、築地や月島は何やら街から遠く離れた場所だったようである。島崎藤村は「食堂」の中で、
「木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節問屋、蒲鉾屋などが軒を並べていて、九月のはじめのことであって見れば秋鯖なぞをかついだ肴屋がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところでなければ、ほんとうの日本橋のような気もしなかったのである。・・・あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられもしなかった。」
魚河岸が日本橋から築地に移転してから5年、さらに築地の風景が変わる。1940年(昭和15年)に7年の年月をかけて「東洋一の可動橋」が出来たのである。築地と月島を結ぶ跳開橋の勝鬨橋である。月島の工場などで働く人々のために大量の陸上輸送能力を確保するというのが目的であった。車や人の通行だけではなく、1947年(昭和22年)から1968年(昭和43年)までは都電も通行していた。しかし、当時、隅田川には大型船舶が一日に20隻以上航行しており、航路確保のために高架橋方式なども検討されたが、技術・工費両面から跳開橋方式が採用されたという。橋の中央部は二つに分かれていて、一日に5回、一回20分程度、それぞれ70秒で70度跳ね上がり大型船舶の航路を確保していた。その後、時とともに大型船舶の航路が変わり、1970年(昭和45年)以降、橋の開閉は休止されている。高木千太郎の論文『双葉跳開橋・勝鬨橋の現状と今後』によれば、橋ができる前の築地と月島の渡船利用者は年間一千万人以上とされ、陸路は東の相生橋を渡る迂回ルートしかなく30分ほどかかっていたようである。橋ができたので、5分ほどで通行可能となり利便性は圧倒的に向上した。
1952年(昭和27年)の映画『東京の恋人』には勝鬨橋が跳ね上がっていくシーンが何回か出てくる。原節子演じる主人公が、住んでいる月島から仕事場のある銀座へ通う都電に乗っているときに、橋の跳開時間にぶつかり停止した都電の中で待たされる。ゆっくりとした時代である。橋が跳ね上がる時には、都電のレールの溝や道路にある塵芥が舞ったというからさぞかし大変だっただろう。橋の開閉を操作する人間も必要だし、維持管理をする側から見れば結構なお荷物だったのかもしれない。それでも跳開を行う機械装置には、当時の最新技術が使用され今では日本機械遺産にも指定されている。写真で見ても、片側千トンの橋を跳ね上げる肉厚極太の歯車は壮観だし、バックアップ電源や二系統受電などの対策もされていた。橋の築地側には、当時の変電所を利用した「かちどき橋資料館」もある。ゴッホの「アルルの跳ね橋」はコンクリートになり絵でしか見ることができないが、もしできれば勝鬨橋は一度跳ね上げてみたい気がする。今「勝鬨橋をあげる会」が頑張っている。
●島崎藤村「食堂」・・・『嵐・ある女の生涯』新潮社 1969年に掲載。
●高木千太郎『双葉跳開橋・勝鬨橋の現状と今後』第九回鋼構造と橋に関するシンポジウム論文報告集 2006年・・・勝鬨橋は築地と勝どき地区を繋ぎ、月島はその西北にある。
●『東京の恋人』1952年公開の東宝映画。監督:千葉泰樹 出演:原節子 三船敏郎
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