21.骨切りの音聞き澄ます鱧祭
鱧の皮の二杯酢は、もちろん美味しいが、京都で食べる夏の鱧はやはり格別である。それでも、夏目漱石は鱧がお気に召さなかったらしい。
21.骨切りの音聞き澄ます鱧祭
夏目漱石は『虞美人草』の登場人物に、
「又鱧を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨ばかりだ。京都と云う所は実に愚なところだ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
と語らせている。この人物は、泊まっている宿の台所から漂う魚を焼く匂いで、「又、鱧を食わせるな。」と想像した。昼食には、まさに鱧が出て予想は当たったのだが、前後の文章には、柳が垂れていたり、銘仙の丹前や駱駝の膝掛けが出てきたり、赤い腹を見せる燕が飛んでいたり、菜の花、連翹の花の話があったりと、季節を想像させる表現は枚挙に遑がない。果ては春雨という言葉も出てくる。明らかに季節は春の初めである。この時期に鱧を食べたのだろうか。まだ油も乗っていないはずなので、もし食べたとしても本来の美味しさではなかっただろう。夏に食べて欲しかった。
季節外れの漱石鱧の話はさておき、関西、特に京都の夏はやはり鱧である。祇園祭の頃に鱧の季節となる。鱧祭や祭鱧という言葉も俳句でよく使われる。久しぶりの京都。祇園祭の賑やかさから少し醒めた夏の夕方、カウンターの向こうでしゃっしゃっというリズミカルな音をたてて鱧の骨を切る板前の姿が見える。鱧の焼霜造りがもうすぐ目の前に現れるかと思うと、その音に心が踊る。落としや照り焼きも美味しいが、鱧の表面を少し炙った焼霜造りはさらに美味しい。炙られた皮が縮んで身の部分が丸く広がる。丸くなった身の方もほんの少し焦げ目が付くくらいに炙ってもらう。中はまだ生である。わさび醤油をつけて口に入れると、皮目から身へと微妙に変化する歯触りが、口の中で鱧の旨みを広げてくれる。「夏は来ぬ」と実感する時だ。
祇園祭は巡行も華やかで良いが、当日の早朝に山鉾町の様子を見るのが面白い。その日、町内の人たちは早起きをして、山や鉾の最後の飾り付けを行うのである。1975年(昭和50年)7月17日の朝6時半、私は京都の山鉾町の一つ「風早町」の表通りに立って、油天神山の飾り付けを見ていた。この町の表通りと路地に関する調査をして修士論文を書こうとしていたのである。宵山まで飾り席に飾られていた本飾りが、その日の朝には次々と山につけられていく。町の顔馴染みどうしの人たちの話や笑い声が聞こえてくる。山の飾り付けが済むと、男たちは家にもどり祭装束である涼しそうな色合いの裃に着替えて表に出てくる。にわかに撮影会が始まる。普段あまり顔を合わせる機会のない人たちも、久しぶりに顔を合わせて、挨拶をしている。小さな子供の成長ぶりに感心し、衣装が似合うだの、裾がおかしいだのと祭当日の会話が弾んでいる。
「8時40分、山鉾の集合場所である四条烏丸へ向けて出発である。町内の人の『ごくろうさんどす』の声に送られながら、先導役をつとめる20人近くの男たちは、軽く頭をさげる。その後を美しく飾られた山が、足軽姿のアルバイトの学生にひかれてすすんでゆく。今年も巡行が始まった。」
と、上田篤編の『京町家 コミュニティー研究』に、当日の風早町の情景が出てくる。表の油小路通り沿いには瓦屋根の町屋が並んでお商売をする家が並び、路地の奥には木造の借家が並んでいた。京都でよく見かける町中らしい風景であった。先日、久しぶりにこの町を尋ねたが、多くの建物が建て変わりホテルや新しいお店ができていた。古い町屋もだいぶ消えていた。風情がなくなったとも言えるが、今を生きるための強かさと見ることもできなくはない。50年前は、なんとか町内の人たちで祇園祭を担っていたが、今はどう折り合いをつけているのだろう。油天神山がなくなったという話は聞かないから、なんとか時代に合わせてやりくりをつけているのではないか。それでも、町の東北角にある火尊天満宮は昔のまま全く変わっていなかった。あの時も、この火尊天満宮にカメラを向けた記憶が蘇る。この火尊天満宮は、風早町の町名の由来にも関わっている。前掲書では「京都坊目誌」を引用して、
「何れの時にか、華族風早氏の第中(ていちゅう)に、鎮座せし菅神像を、本町に移しまつるを以って町構えと為す。中世以来此町の東北角に愛宕神社あり、火伏せの社という。(中略)明治六年(一八七三年)維持立たず廃社し、地は民有に帰す。因に云ふ。慶長(一五九六年〜一六一四年)以来毎年の祇園会に此町より山棚を出す。之を牛天神、又油天神山と云ふ。」
と記し、火尊天満宮に天神さんと愛宕さんが祀られている由来を説明している。天神さんが菅原道真公であることは言うまでもないが、愛宕さんも火伏せの神様として古くから知られている。愛宕神社の本山は京都の愛宕山の山頂にあり、全国900あまりある愛宕神社の総本山でもある。標高924メートルの高い山の頂上に社殿がある。落語に「愛宕山」という話があるのだが、お参りに行くというよりも、多勢でお弁当をもって野駆けに行くという話である。桂米朝は『米朝ばなし 上方落語地図』で落語「愛宕山」について、
「傘をさして飛ぶというのも、竹の反動で上がって来るのも嘘ですし、それまでの登って来る愛宕山の描写なども、私はこれをかしく師匠に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで、この話嘘ばっかりやさかい。十分、口慣れてから行きなさい』と言われて『さよか』と、・・・」
と書いている。たしかに2人の幇間は苦労して登っているが、旦那は舞妓や芸妓たちを連れて楽しそうに登っている。祇園から上り口の清滝までは14キロメートル、清滝からは上りで9キロメートル、しかも相当な難路である。落語の「愛宕山」は嘘ばかりというのは決して嘘ではない。三重県の民謡伊勢音頭には「伊勢は七度、熊野は三度、愛宕さんには月参り」という歌詞があり、愛宕さんには、月に1度はお参りをしないとご利益がないと歌われている。とはいえ徒歩で往復46キロメートル、標高924メートルの山登りは正直言って大変である。件の本には、米朝師も愛宕山には登っていないと書いてある。
●夏目漱石『虞美人草』新潮社 1951年(1907年朝日新聞連載)
●上田篤 編『京町家 コミュニティー研究』鹿島出版会 1976年・・・「下京風早町/カドとロウジ」(野口美智子他1名)として、風早町のことが記載されている。
●『京都叢書』第十三巻 臨川書房 1915年・・・「京都坊目誌」が掲載されている。
●桂米朝『米朝ばなし 上方落語地図』講談社 1984年
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