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英語教師にはどれだけの言語が必要か?

英語のみならず、第二言語として言葉を教えるのは難しい。

私自身の第一言語(「母語」ともいう。決して「母国語」などではない)は日本語であり、流暢とはいえないまでも、それなりに使うことはできる。しかし、100年前の日本語で書かれた文章も正確に読むことができるかどうかは心許ないし、ましてや『枕草子』も『源氏物語』(いずれも執筆は11世紀の頭)も正確に理解できる自信はない。全くない。どう過大評価しても、「日本語をマスターした/しつつある」とはいうことは出来ないし、あと100年生きても無理だと思う(ところが世界には「英語をマスターする/した」と豪語する人たちがおり、世の中には私たちの理解をはるかに超える天才たちがいるものだな、とつくづく感心する)。

さてさて、英語の教師ーーとりわけ日本の中等教育で英語を教えている教師がどれくらい英語ができるのかはよく分からない。修士課程を終えないと資格がもらえないというわけでもないので、文字通り、英語をマスターしてないことは間違いないだろう。まあ、そこまでは必要はないと思う。それよりも、英語を学んでもらう前に、「世界にはいろんな言葉があるんだよ」という「言語」という科目を小6あたりで必修にしたほうが良いと思うのだが、あまりそういうことを思っておられる方はいないらしい。

ともあれ、表題に戻ると、私見によれば「英語の教師はラテン語の単位くらいはとってしかるべきである」というのが、私の昔からの一貫した主張である。というか、英語をまともに勉強しようとすれば自然とラテン語を知らないと、何も教えることができないという気持ちになるはずなのだが、そうでもないのか?

一説によれば、英語の単語の70%はラテン語経由という(フランス語からの流入とかもあるけれど、ややこしくなるので、ちょっと割愛)。そういえば、noteもラテン語に起源を持つ単語だ(印、記号などの意)。

よって、「ラテン語の単位くらいは取っておけ」と思うのと、できたらフランス語・ドイツ語あたりも勉強しておくと、色々役立つことは間違いない。この辺りの言葉と比較できるということによって、英語という言葉がどういう言葉であるかを説明することができる。はず。さらにはギリシャ語もやっておくと良いと思うが、これはシェイクスピア先生の言葉に従い(It is Greek to me)、努力目標くらいで良いだろう。

言葉の比較という点では、日本語とはどういう言語かというのを勉強しておくと良いと思う。外語を勉強するということは、母語を学ぶということでもある。この辺りも弱いと思う。そういう意味では、日本の英語の教師は日本語をよく知る教師であるべきであるとも思う。


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