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鈴木隆美「恋愛制度 束縛の2500年史

富田林でレースがある。家から往復してもよかったのだが、その近くのお不動さんの古刹の前にある門前屋に泊まった。玄関の自動ドアが壊れ他に客がいないが夕食は出すという。Wifiなどはない。今風呂を沸かしているから少し待ってと言われている間に鈴木隆美「恋愛制度 束縛の2500年史」を読んでいる。「緊縛の」ではなかったからSMは関係なかった。

とここまで書いたら外から念仏が聞こえてきた。部屋の外には滝修行場があり、雨も降っていてもう真っ暗だったけれどそこで女性が白い衣装を着て、滝に打たれながらお経を唱えているのだ。1月中旬の最も寒い時期、彼女は何を祈っているのだろうか?

恋愛制度のタイトルが示す通りまず、恋愛は制度である。そして日本には西欧型とは異なる不思議な恋愛制度がある。この本では他のアジア諸国との比較はないが、もしあれば面白いだろう。
恋愛論として読み始めたけど、恋愛を語るときの言葉についての考察が面白かった。

作者はプルーストを専門にしている。フランス文学である。この本ではギリシャ、ローマ、騎士道、ロマン主義特にユゴとスタンダール(この人も恋愛論を書いて昔読んだけどピンと来なかった)、プルースト、と並べながら恋愛の考え方を真面目に比べていくのでした。そして日本では、漱石の弟子で大正時代に恋愛論を書いた厨川(みくりがわ)白村、村上春樹、さらにはオタク文化の中での恋愛、特にキャラ萌えについて。

日本では、いとしい、すき、恋、愛、崇拝と愛の深さに応じて並べることができるが、恋からあとは音読みである。すなわちこの言葉、すなわち制度は輸入品であろう。

フランス語では、好き=Aimer 愛している Aimerであるが、I love youはご存知ジュテームJe t’aimeである。一方フランス語でI like youとなると Je t’aime bien(良く)か Je t’aime beaucoup(とても)となる。ある種の修飾語がつくと意味が弱まる。日本語でもあなたのこと、とても好きよ・・・には「でも」というその後の言葉が続くだろう。それと似ている。
もう一つAdorerというadoration には崇拝という意味があり、こちらの方は神様にも使う。

英語はI like, I love, I adoreと使い分けることもできる。

でギリシャ語。神の愛についてをアガペーという。現代ギリシャ語では I like youはμου αρέσεις、I love you はΣ’αγαπώつまり(セ)アガポー、I adore youはσε λατρεύω (セ・ラトレヴォー)となる。それともう一つフィリスというのがある。フィロソフィーとかフィラデルフィアの接頭語のフィリスである。これも好き。人の愛とくらべて根源的な愛を中世の宗教家が名付けたものである。当時はキリストがアガポーと言い、パウロがフィローと言ったから神の愛はアガペーであるということなのだろうけど、そもそもキリストもパウロも母語はギリシャ語でなかったから翻訳。ラテン語とギリシャ語が両方できた中世の修道士研究者がギリシャ語文献から引っ張り出してきて強調したんだろうね。日本でも新しい哲学的概念を入れるときは翻訳せずにそのままカタカナ表記をすることがある。あるいは新しい漢字を当てる。つまりそういうことが起きているときは、注意しなければならないということです。アガペーという言葉に騙されてはいけない。

で、日本にLoveという概念が入ってきたときに、恋愛という言葉を作ったのですよ。
本書でも柄谷行人のこの文章を引用しています。
「外のものをどんどん受け入れながら、あくまでそれを外のものであると見なすやり方は、まさに漢字の音訓併読、あるいは漢字仮名併用によって可能なのです」

同様にカタカナを使うときにもそれが外国産のものであることを示していて、完全に日本語化しているわけではない。この言葉の上でのひらがな、カタカナ、漢字の併用状態があることで諸文化を取り入れた振りをしながら実は「外国産」の印を刻みつけるのが日本語の特徴だろうね。

そもそも恋愛という言葉の意味が西欧と日本では多分だいぶ違うので、ヨーロッパ的な知の枠組みを使って、日本の「恋愛」を分析すると、原理的に意味不明な言説になります」

この本で著者は
「日本には「個」としての確立よりも集団としての「和」が重要視され「個の確立」の経過で語られたヨーロッパの恋愛論をそのまま入れるおかしなことになる」

これは日本文学批評も同じで村上春樹を読む際に、フランス哲学のロジックを使って批評することはかなり的外れになるという実例を挙げているところも納得する。

さらには
著者はポストモダンの言説を大学で一生懸命勉強し、フランスに行って仰天しました。なぜなら本家本元のフランスでは、先生から学生に至るまで、ポストモダンでもなんでもなくて、基本的にはモダンで考えていたし、そこから抜け出そうとも思っておらず、ポストモダンなんて大して重要ではなかったからです。  そこで著者が理解したのは、日本の知識人は、一時期フランスで大流行した言説を、それまでの全ての議論を乗り越えた最先端の言説として盲信していただけである、ということでした。さらに、そうした日本の知識人に自分が取り込まれていた、ということにも気づいて愕然としたものです。」

例えばデリダがハイデガーのDestruction(解体)に対応してDeconstruction(脱構築)という言葉を作ったとき!こんな風に哲学者や、評論家やマスコミや、政治家が新しい用語を使うとき。これこそ私たちが一番注意しなければいけない。そんな時には何かを暴こうという意図か、あるいは何かを隠そうとする意図があるかもしれない。

そうまで書かれると、昔読み損ねたのを拾い読みしているぐらいの気持ちですけど、読み続けるべきか考えてしまうな。
レースが終わって恍惚の時間にこの文章を書き終わった。

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