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スピッツサンセット

スピッツがスピッツであるだけで、観ているわたしはしあわせになる。彼らが彼らであるだけで、こうふくだ。

七年前の横浜での野外ライブは、その後劇場版として公開され、パッケージにはならなかった。ライブにも映画館にも行かなかったわたしは、もう永遠に観ることはないのだと思っていた。そのライブ映像が、動画配信されたのを昨夜鑑賞したのだった。

なぜスピッツが好きなのか。ずっとそれをうまく言えなかったのだけれど、やっと最近わかった。わたしは、彼らの在り方が好きなのだ。音楽が鳴らされる以前の、彼らの存在の在りように強く共鳴している。

もうずいぶん前に、マサムネがインタビューで、ツユクサは草じゃなく花だ、と熱弁しているのを読んで、わたしは自分もそう思っていること、そして自分もツユクサが好きだということを理解した。その時、この人のつくるものもこの人のことも、もう無条件に信頼していいのだと思った。ツユクサの美しさを知る人なのだから。

赤レンガパークから港が見えた。船がたくさん行き来していた。きっと潮風が吹いているのだろうなと思った。夕方の空、灰色の雲、暮れていくときの空気の色、人の熱気とざわめき。始まって七曲目くらいで、もう真っ暗になった。海に浮かぶ船の明かり、遠くに並んだビルの光。

スピッツはただ彼らとしてそこにいて、音を奏でていた。四人とも楽しそうだった。笑顔と微笑みの間みたいな、うれしくて仕方ないという表情。ものすごくゆるんだままで、演奏しているんだろうなと思った。ものすごくリラックスしていて、それと同じくらい集中している。彼らがただ彼らであることが、伝わってくる。それ以上でもそれ以下でもない、ぴったりそのままの自分として、彼らはいる。本当に稀有なことだと思う、ステージに立つ人が、自分を演じることがないというのは。

たとえばツユクサは、ツユクサ以外の何かになろうとはしない。ただそこに咲いているだけで美しい。そういう植物たちの在りようと同じ在り方で、スピッツは存在しているのだと思う。自分が自分であることに、心からつくろいでいる。彼らの醸し出す空気は、とてもやさしい。音となるとなおさらやさしい。彼らを見ていてしあわせな気持ちになるのは、自分もまたそのような在り方に戻っていくから。スピッツのやさしさにふれて、ゆるゆるとゆるんで、自分がちゃんと自分に還ってくるから。

ライブが終わったあとのほとんど真っ暗闇になった空を見て、上気した頬に涼しい夜の空気が触れるかんじを思った。音と振動と、スピッツからもらったまあるい明かりを身の内に抱いて、けだるく帰る道を思った。スピッツはすごい。そして、彼らを好きなわたしもすごい。たくさんのことを受け取って、なかなか寝つかれない夜だった。



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