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只見線に乗って。会津若松~小出まで

台風で橋梁が流され、会津川口から只見の区間が何年も不通になっていた只見線が去年10月に全線開通した。
何十年も前の多感な頃、会津川口から奥に入った昭和村とそれ以前には新潟県北魚沼郡入広瀬村大白川(現魚沼市)に住んでいたことがあり、いつか只見線に乗って、その地を訪ねてみたいと夢見ていた。
全線開通と紅葉を見計らって計画を立てた。
当日、会津若松の只見線のホームは長蛇の列だった。

会津若松只見線ホーム

会津坂下町は父が出署していたとか、柳津の虚空蔵寺には十三参りの時に千羽鶴を折って詣でたとか、会津水沼は中学2年の時、キャンプで一泊したこともあった。様々な思い出が頭の中をグルグルと巡った。それは全て会津川口からの乗降から始まっていた。
当日は只見駅前旅館(泊)

新潟県大白川

昭和村に引っ越す前に住んでいた当時はまだ、大白川~只見間は開通しておらず、最近になってからだが、引っ越しのルートを確認してみた。おそらく新津に出て磐越西線に乗り、会津若松で只見線に乗り換え会津川口まで行ったものと思われる。大変な遠回りだった。
高齢の祖母と子供3人を連れての引っ越し、両親の苦労も知らずに子供たちはのほほんとしたものだった。
只見駅前旅館(泊)

只見駅ホーム
大白川駅の線路

大白川は只見から一駅。たった一駅なのに開通したのは昭和40年代半ばだという。
少しの間しか住まなかったが、大雪の中で過ごしたひと冬には、ぎゅっと詰まったものがある。

大白川駅で降りた人は我々だけだった。想定内だったが。
通った大白川小学校に行ってみたが、とっくに廃校になり、朽ちた佇まいで残っていた。塞いだ。
人も少なかった。部落には子供は一人しかいないと聞いた。ねこも犬も見かけなかった。
コンビニも商店もなかった。
当時もそうだったが、過疎というのはこういうことなのだと思い知らされた。
今、若者もそうでない者も都会に集中し、とても便利で不自由のない暮らしをしていると思う。それは快適であることには間違いない。
時々は、過疎の村でコツコツと生活を守りながら、静かに日々を暮らしている方々を思い起こしてしてみるのもいいかもしれない。
季節が来れば山菜やキノコ採り魚釣りを楽しみながら、四季折々を工夫しながらより豊かに生きているのではないか。

五十年以上も前に暮らした土地にタイムスリップして、長年の願望が叶った安堵感がある。
祖母も、父母も末の妹も遠くに行ってしまったが、あの時代のあの場所に確かに、自分と家族は存在していたんだなと確かめることが出来た。
人生の旅はまだ続くよ。続く。





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