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「花火」【短編小説】

 毎年、学校が夏休みに入ると、近所の邸に一人で住んでいる足の悪いあばあさんのところに、勉強を教わりに通っていた。当時小学校低学年だった私は、どういう経緯でそうなったのか知らないが、週に一度か二度、その人に会いに行かなければならないのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 おばあさんの家の門前には大きな柿の木が植わっていた。薄暗い陰になったその門をくぐるとき私の胸は憂鬱でいっぱいだった。シャイな少年だった私は、家族以外の大人と話すのが苦手だったし、学校の勉強も好きではなかった。

 そんな私を少しでも世間慣れさせようと計った母のねらいは逆効果だった。右足を引きずって歩く寡黙なおばあさんのせいで、私はますます勉強が嫌いになりそうだった。

 私は仏壇のある部屋で二時間くらいおばあさんの授業を受けた。学校から出された宿題を自力で解きすすめ、一ページ解き終えるとそれをおばあさんに採点してもらう。間違ったところにはおばあさんの容赦のないバツ印が大きく濃く書きこまれた。おばあさんはいつも私に優しかったが、そのバツ印には子供の心を無言のままに打ちくだく迫力があった。

 おばあさんは勉強の時間のあとに必ずおやつを出してくれた。しかしそのおやつは私の口に合わないものばかりだった。私はできるだけ美味しそうに食べているふうを装ったが、そうするとかえって自分の陰湿さや罪深さと向き合わされるようで、いっそう居心地が悪かった。

 八月が終わりに近づいたある日のことだった。いつも通り六時少し前に家に帰った私は、夕飯どきになって、さっきまでいたおばあさんの家に筆箱を忘れてきたことに気がついた。

 翌日が学校の登校日だったから、筆箱はどうしても必要だった。が、私の足は重かった。いまごろあの柿の木の下は深い闇だと思うと気持ちが沈んだ。

 それでも私はその夜のうちにその門をくぐった。玄関のドアが静かに開かれ、ゆっくりと中から出てきたおばあさんは、私の筆箱を手に持って、「これね」と微笑んだ。私は黙ってうなずいた。

 そのとき、玄関の上がり框に、色とりどりの小さい花束のようなものが一瞬だけ見えた。おばあさんは私のその視線に目ざとく気がついて、
「孫が、こっちに帰って来れんようなってしもうてねえ。ずいぶんまえから用意しとったんやけど、もう湿ってしまうし、捨てようと思うとったん。よかったら、あきちゃん、やっていく?」と言った。

 私は早く家に帰りたかったのに、おばあさんのその言葉にどうしてか首を横に振ることができなかった。

 真っ暗な柿の木の下におばあさんは私を連れて行った。そして一本の線香花火を私に持たせ、

「よう見とってなー、ほかのとは、ぜんぜん違うで」

 そう言って点火された長手牡丹の、力強く弾けだした火の玉は大きく、火花は見たことのない開きかたで四方八方に散った。一つの花火が終わるとおばあさんは次の花火に火をつけた。おばあさんの手にも大きな花が開いた。

「うちの死んだお父ちゃんの家は、花火の職人さんやったん。お父ちゃんの花火はええでえ」

 返答に困った私は意味もなくこくりとうなずいた。

「もう二年も、こっち帰って来てくれんの。中学生になってなあ、勉強が忙しいらしいけど」今度はお孫さんのことのようだった。おばあさんは小さく溜息をついて、「ええなあ、花火は、やっぱり、ええなあ」と言った。

 家族のことをはじめて私に話すおばあさんはいつになくおしゃべりだった。私は終始どう応えていいのかわからず、無理に笑おうとして顔がこわばったりした。

「あきちゃんは、素直で、ええ子や」

 辺りはすっかり闇に沈んでいた。深い静けさのなかで、おばあさんのかさかさという乾いた草履の音が、胸に染みつくような夜だった。

(終わり)

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