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「繭を捨てる」【短編小説】

「落とされましたよ」

 背後で鋭い声がしたので振り返ると、背の低い中年男が私を見上げていた。

「落とされましたよ、これ」

 男の右手のひらには楕円形をした金色の繭のようなものが乗っている。それはたとえるならテレビタレントが胸に付けるピンマイクの先のスポンジの風防のようなものだ。風が吹くと飛んでいってしまいそうなくらい、小さくて軽そうである。

「いえ、私のじゃないです」

「そんなことはないでしょう」

「ごめんなさい。私じゃありません」

「では、これはいったいなんなんですか」

 男は眉間に深い皺を浮かべた。私は困ってしまう。

「私こそ知りたいですよ。それが何なのか」私は苦笑いでこたえる。

「いや、あなたは知っているはずだ」男は自信たっぷりに言う。「だってあなたが落としたんですから」

 男の一方的な言い分に私はいらついてきた。

「その証拠はあるんですか?」

「ええ。もちろんあります」

「じゃあ、見せてくださいよ」

「いいですけど……あなたにそれを受け入れる覚悟があるんですか?」

「は?」

「だから、」男の顔には私への嘲笑のような笑みが浮かぶ。しかし男はすぐにそれをひっこめて、今度はこちらがはっとするくらいまじめな顔つきになった。「その証拠を見ても、あなたは私に対して理不尽に怒り狂ったり、暴力をはたらいたりしませんね?」

「私は人を殴ったことなんかありません」

「私だって殴られたことはありません」

「何が言いたいんですか」私はいよいよ声をあらげた。

「ようするに……あなたはしのごの言わず、こいつを持ち帰るべきなんです」

 ここで私はあきらめがつく。

「そうですか、わかりました。それ、私のものです。失礼しました。大人しく持って帰ります」

 すると男は黙ってその繭を私に手渡すと、私から逃げるようにして雑踏のなかを駆けて行った。男は通りを行く群衆のただなかにぴょんと飛びこむと、あっというまに姿をくらました。私は狐につままれたような気分で家路についた。――


 すぐにどこかに捨てればいいと思って引き受けた繭であったが、けっきょくどこに捨てればいいか分からずに、家に持って帰ってしまった。

 そのうち夜が更けた。さっさと捨ててしまおうと思うのだが、なんだか捨てるのが惜しいような気がしてくる。

 朝になる。きょう一日は様子を見ておいてもいいような気がする。

 また夜が更ける。私は使い道のない繭に、すでに変な愛着のような感情をいだいていることに気がつく。

 また夜が更け、朝になる。――

 けっきょく次の日も、また次の日も、私は繭を捨てられなかった。


   *


「落とされましたよ」

 私よりひと回りほど若い青年がこちらを振り返った。私は繰り返す。

「落とされましたよ、これ」

 私の手のひらには楕円形をした金色の繭のようなもの。それはたとえるならピンマイクのスポンジの風防だ。風が吹くと飛んでいってしまいそうなくらい、小さくて軽い。

「いえ、違います」

「とぼけたっていけません」

 そのとき、私はすでに覚悟を決めていた。

「いえ、ぼくのじゃないです」

「では、これはいったいなんなんですか?」

「なにって、知りませんよ」青年は不快感をあらわにして言う。しかし私は負けてはならない。こうまでしなければ、私はこの繭を手放すことができないのだ。

「何ですか、それ」

「私こそ……私こそ教えて欲しいですよ!これがいったい何なのか」これは私の本心だった。

 青年も負けてはいない。「あなたね、そこまで言うなら、それがぼくのものであるという証拠を見せてくださいよ」

 そこで私は必殺の言葉を繰りだす。

「いいけれど……きみにそれを受け入れる覚悟があるんですか?」

(終)

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