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【小説】「静鼓伝」(終)


【あらすじ】

 静御前は母・磯禅師とともに讃岐の地を訪れ、剃髪し僧侶になった。静は源義経との別れの際、彼の形見として授かった小鼓「初音」を大切に持ち歩いていたが、かつての侍女・琴路が彼女のもとを訪れたときには、その鼓はなくなっていた。静が「初音」を手放した背景には、亡き母の深い愛と教えがあった。香川県東部地域に実際に伝わる静御前伝承がもとになった作品。


  *


「……母には、お見通しでした。長尾寺で髪を剃った私が、それ以降も、俗世への思いを断ち切れず、過去に救いをもとめ、みじめに生きながらえてしまっていたことを」

 静はぽつりぽつりと話した。

「ですから、母は、あの鼓を捨てなさいと、私に言いました」

 琴路の胸に磯の顔が浮かんだ。その顔には、国へ帰ることを拒む幼い琴路へ向けた、優しくも厳しいあの日の表情が浮かんでいた。

 静はつづけた。

「琴路には、私がはじめ、そんな母の言葉に聞く耳をもたなかったことを、わかっていただけるでしょう? 大恩ある母を、私は、ほとんど憎むくらいに思ったことを、お察しいただけるでしょう? ……しかし、そうやって強情に、いたずらに時を重ねてゆくうちに、母の言葉にひそむ本当の情愛に、その思いやりの深さに、私は気がつきました」

「それで、」――捨ててしまったのですか? と琴路は目でたずねた。

 すると静は、その小さな両手を胸の前に広げ、その手の上に乗った、見えない「何か」を空中へ放り投げるようなそぶりをしてみせた。少女のように無邪気な手つきで投げ出されたその「何か」は、静の寝床を照らしだす光の筋のなかを漂い、やがてゆるやかに消えていった。

静はにこりと微笑みを浮かべ、琴路を柔らかなまなざしで見つめて言った。

「ええ。おさらばしました」



 琴路は再び板戸の前に立った。今度は静に遠慮することなく勢いよく開け放った戸から、光に満ちた朝を迎え入れた。

 目の前の野辺の眩しさに、二人は思わず目を細めた。

 鳥たちの歌声がいちだんと大きくなった。その声は絶え間なくいつまでも聞こえてきた。庵の近くの木立は冷たい風にときおり音を立てて震えながら、鳥たちの自由な音楽に耳を澄ましているようだった。やがて太陽が高々と昇り、雲ひとつない青い空の高さをいっそう際立させた。

 いっさいの屈託なく歌いつづける鳥たちはどこまでも自由だった。そして身軽だった。ここへやってくるまでのあいだ、いくつもの思い出に「おさらば」を繰り返してきた鳥たちの、その身軽さ。彼らは懸命に「今、この時」を歌っている。まるで即興の謡のような、しなやかなその歌声は、琴路の心までも軽くした。

 すっかり目を覚ました今でも半分夢を見るような目の主人に、琴路は精いっぱいの敬愛の情を込めて言った。

「私はもうすこしだけ、ここにいたく存じます」

 静は爽やかに笑ってこたえる。

「ええ」――「ありがとう、琴路」

 新しい春の息吹が、どこからか、優しい歌声を運んでくる。

 色は匂へど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山 けふこえて
 あさき夢みじ 酔ひもせず


(終わり)

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