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「蝶とショパン」【短編小説】

 鈴子がショパンのワルツを弾いていると、窓辺の光の束がわずかに揺れた。カーテンをそよがせて、夏の風が吹いたのだ。それだけではない、風に乗ってひらひらと一羽の蝶が音楽室に迷いこんだ。鈴子はピアノを弾いていた両手の指の動きをとめた。

「こんにちは、アゲハ蝶さん」

 ショパンの残響のなかにアゲハ蝶は舞った。空気のかすかな振動を丁寧に羽で受けとめて、それに全身をあずけたような儚い舞姿だった。

 鈴子は小学校の三階の隅にある音楽室でピアノを弾いていた。放課後、遊び友達のいない鈴子は音楽の先生にたのんで、グランドピアノを特別に貸してもらっていた。両親が共働きの鈴子はうちに帰っても、しんとしたからっぽの部屋で夜更けまで過ごさなければいけなかった。おまけにそこにはピアノがない。

 きょうだいもいない鈴子はしかし、ピアノの音色を聴くと心の底から元気になれた。ひとりの部屋のさみしさも、夜七時を過ぎないと帰ってこないお母さんとお父さんのことも、きょうは習い事へいってしまった、たった一人の親友の友子ちゃんのことも、鈴子の悩みをピアノはいつも忘れさせてくれた。ピアノだけが、どこへもいってしまわない鈴子の友達だった。

 ――いま、弱々しくも力づよく、蝶は音楽室を飛びまわっていた。鈴子はうれしくて視線を蝶から離せなかったが、ふと蝶のほうから姿をどこかへ消してしまった。

 あっという間の、夢のような出来事だったと鈴子は残念に思った。

 ショパンにも『蝶々』という曲があったな、と鈴子はそのときふと思いだした。けれど鈴子にはまだその曲が弾けなかった。もっともっとピアノが弾けるようになれたらどんなに楽しいだろう、鈴子は音楽の先生の第一関節くらいまでしかない、まだ幼い五本の指を白鍵の上でさまよわせながら、そんなことを考えた。

 そうして視線を目の前の譜面台にもどしたとき、

「あ!」

 思わず声が出た。

 グランドピアノの開いた屋根の下に、さっきの蝶が現れたのだ。斜めに固定した屋根の裏側の黒い光沢のなかにその舞姿が反射していた。

 弦の上で浮遊する現実の蝶と、それを光沢のなかでまねる幻の蝶が、鈴子の演奏を待ちわびていた。鈴子は胸を高鳴らせて、鍵盤にそっと指を置いた。

 けれど鈴子は蝶をびっくりさせないように、いつもよりずっとやさしく、ショパンのワルツを弾いた。美しい時間が音楽室いっぱいにあふれた。夏の風がまた部屋を吹き抜けた。カーテンがささやかに波をうった。旋律のなかの蝶は、まるで鈴子の心のように、しずかに懸命に、音楽に寄り添っていた。

(終わり)

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