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「ボクの奇妙な冒険」【短編小説】(後編)


 僕は知らない名前の駅で電車を降りた。小さな駅だった。むっつりと押し黙った背の高い駅員が改札の手前で僕の切符を受け取った。そして僕の顔をいぶかしげな表情で覗きこんだ。僕はそれをきっぱりと無視し、堂々と胸を張って、僕自身の意志で選んだ駅の改札を出た。夏の太陽がぎらぎらと輝き、正面から僕を迎えた。額に汗が吹き出した。

 駅の敷地を出ると、そこには当然ながら、僕の知らない町並があった。僕の知らない人たちがこの土地で暮らしているんだと、僕は胸をおどらせた。この町の商店にはもしかしたら、僕の知らないアイスが売っているかもしれない。中学校では、僕の知らない歌が流行っているかもしれない。

 何か目的があって、僕はここへやって来たわけではない。ただ、学校から遠く離れたかったというだけだ。ローゴクから抜け出したかっただけだ。そして選んだこの駅の近くには、カフェやカラオケのような時間をつぶせる商業施設は何一つとしてなかった。僕は鄙びた商店街を抜け、閑静な住宅街を通り過ぎ、古いお寺の前に出た。その参道には不思議なくらい人影がなかった。蝉時雨が洪水のように境内を埋めつくしていた。参拝をし、お堂から辺りを見渡してみても、そこには人っ子ひとり見つからなかった。蝉と、風だけがないていた。

 きみの周りには、普段から人が多すぎるんじゃないの?

 たしかに、そうかもしれないな。

 一年前から、僕は生徒会役員を務めている。それをやれば、「内申点がかせげる」と友達に教えられた。僕はみんなにうらやましがられたが、僕には「内申点」というものが、いったいどんなものなのか、皆目見当がつかなかった。あとになって、それが高校受験にとって、高ければ高いほど有利に働くもの、つまりはテストの点数とあまり変わりのないものだということが分かった。僕はうんざりした。なんだ、これもテストか、と。そうだ、僕らの青春時代は、あれもこれもテストの点数だ。誰かと競い合うための。誰かに認められるための。

 きみの今朝の行動は、中学生としてまるで0点だな、と、「もう一人の僕」が言った。
 そうさ、そういうことを僕はやってしまったんだ。きみのせいでもあるんだぞ?


 気がつけば、僕は田圃の中の道を歩いていた。車一台がやっと通れるくらいの細い道だった。道の両側には鮮やかな黄金色をした、僕の腰の高さくらいの丈の稲穂が、風を受けて揺れていた。道と田圃とのあいだを水が流れていた。涼しい音がした。空はどこまでも青かった。僕は歩きつづけた。

 道は緩やかな上り坂になった。途中、いくつかの古い屋敷を横切り、道は雑木林の中へとつづいた。林の中はとても暗かった。僕はずいぶんと長いあいだ人と会っていなかった。この町には人はいないのだろうか? 犬の吠え声がどこからか聞こえてきた。蝉の声がかまびすしい。虫たちはそれぞれの世界でそれぞれの音楽を奏でていた。人間だけがこの町にはいない。雑木林の闇が僕には恐ろしくなってきた。汗がとめどもなく体中を流れた。

 やっとのことで林を抜けると、道は平坦になった。道はどこまでも、どこまでもつづいた。けれど、やっぱり人影はない。

 父さんが憎い。母さんも同じくらい憎い。先生が信じられない。友達は大切だと思っていたけれど、この頃はその思いさえ手放しそうだ。テストが、「内申点」が、「あたりまえの日常」が、僕は嫌いだ。僕の投げたボールは、誰にも受け取ってもらえない。

 僕は、何を信じたらいいだろう?

 きみが見えるものを、信じるしかないんじゃないの?

 僕に、何が見える?

 道の脇に、とつぜん、広い公園が現れた。周囲には緑の樹木が生い茂っていた。公園の中央に、たった一台だけブランコが設置されていた。そこに「もう一人の僕」が乗っていた。彼はこちらを見て頬笑んだ。

 よくここまで来たね、と彼は言った。きみが導いてくれたから、と僕は言った。それは違うよ、と彼。なんで? なんでもさ。僕たちはすぐに打ち解けあった。そして笑いあった。たくさんのことを語りあった。お互いの未来のこと。過去のこと。「あたりまえの日常」のこと。さびしさについて。優しさについて。僕の投げたボールはたしかにいま、彼にとどいていた。彼だって、同じ悩みをかかえていたのだろう。

 あっというまに、夕方になっていた。

 別れ際に彼が言った。

 この先に、大きな海があるけど、見に行かない?

 ごめん、と僕は答える。そろそろうちに帰らないといけないからさ。

 そうだよな、と彼はさびしそうに笑う。またな。

 僕たちは握手を交わした。僕は僕にとっての懐かしい場所をあとにした。決して振り返ってはいけない気がする。彼は最後にもう一度、にこりと笑った。


 家に帰ったとき、時刻は夜の九時だった。母さんが僕を抱きしめた。すぐそばに父さんもいた。父さんはしばらく何も言わなかったけれど、僕は父さんをもう憎いとは思わなかった。もうすでに、僕は父さんと和解を果たしていた。僕は一人で冒険をしてきた。

 彼も今ごろ家に帰っている頃だろう。僕はもう一人でどこへでも歩いて行ける。でも、だからこそ、嫌いなものとも向きあうし、憎いものともうまく付き合う努力をする。中学校には、卒業までちゃんと行ってやる。僕はもう一人じゃない。

 父さんが少年みたいに弱々しい顔をして、僕にたずねた。おまえ、どこまで行ってたんだ?
 僕は目で答えた。それは、僕の心の中にある公園。たとえば、昔、父さんに連れて行ってもらって、親子でキャッチボールをした、今では閉鎖され、草木が生い茂っている、思い出の場所、とかね。

(終わり)

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