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【小説】「静鼓伝」(三)


【あらすじ】

 静御前は母・磯禅師とともに讃岐の地を訪れ、剃髪し僧侶になった。静は源義経との別れの際、彼の形見として授かった小鼓「初音」を大切に持ち歩いていたが、かつての侍女・琴路が彼女のもとを訪れたときには、その鼓はなくなっていた。静が「初音」を手放した背景には、亡き母の深い愛と教えがあった。香川県東部地域に実際に伝わる静御前伝承がもとになった作品。


 *


 初音は、静にとって命よりも大切な鼓だった。

 中国伝来の名器である初音は、後白河法皇から平清盛へと下賜された、もとは平家の家宝である。壇ノ浦の合戦で平家が滅びたあと、海中をさまよい、初音は源義経のもとに偶然辿り着いた。義経は、愛する静との今生の別れの際、その鼓を形見として静にさずけた。

 その鼓の美しい音色が、まるで大空を羽ばたく鳥が何の前触れもなく力尽き地に落ちてしまうように、とつじょとして出なくなった。鼓の不調は、義経の身に良からぬことがおこった知らせではないかと、静は直感した。僧侶となった彼女はその不安を言葉にはしようとしなかったが、心には黒い雲がたちこめ、苦しかった。

 磯は、ふさぎこむ娘の心に住まう邪悪な影の存在をいちはやく見抜いていた。

 讃岐は雨の少ない、温暖な気候の土地である。季節は春のはじめ。静たちが訪れた日から快晴の日がつづいていた。

 湿度の違いによって、繊細な道具である鼓の音色が大きく変わってしまうことはよくあることだった。そのことを静は知らなかった。しかしそれを教え、鼓に執着する娘の心をなだめることが、磯ができる最良のつとめであると、磯自身は考えなかった。

 たった一人の愛娘に、磯が母親として伝えるべきことは他にあった。



 琴路が庵の板戸を開けると、冷たい風が勢いよく吹きぬけ、まだ寝床にいる静をこごえさせた。急いで戸を閉めた琴路の手はかじかんでいた。

 静は折に触れて琴路の行く末を案ずる言葉を口にした。主従はまるで仲の良い姉妹のようであったが、静は自分の運命に、年下の可憐な娘を最後まで付き合わせてしまったことを心の奥底でいつも悔やんでいた。絆の深い二人ではあったが、静はそれでもいっさいの迷いを捨てて、琴路に故郷へ帰ることをすすめた。

 しかし琴路は聞く耳をもたなかった。琴路は望んでこの場所にいた。大好きな人のそばにいてさしあげることは、琴路自身の願いだった。

「琴路、」静がふと言った。「あなたがこちらへいらしてくれたとき、初音がまだ私の手元にあったとしたら……私はあなたにそれを託しました」

「まあ、本当に?」

「ええ。そして、あなたのふるさとへ、それを持ち帰っていただいた……」

 琴路はいつもに増して悲しくなった。たった一人の大切な人に、求められていないことのむなしさが、琴路の胸を強く締めつけた。久方ぶりに晴れ渡る清々しい朝の光が、琴路の孤独を照らしだし、いっそう彼女をみじめな思いにした。

「なくされたもののことを、あれこれ言うのはよしましょう」

 琴路は冷たく言い返した。

「なくしたのではございません」静はきっぱりと言い切った。「小川のほとりの泉に、私自身の手で、捨ててしまったのです」

 琴路は耳を疑った。初音は、鎌倉へ向かう以前の静が肌身離さず大切に持ち歩いていた楽器だった。静は来る日も来る日も、まるで亡き子息の柔肌に触れるようにその鼓に触れ、美しい音色を奏でた。琴路はおそれ多く、初音に触れることさえできなかった。


 讃岐での再会のあと、静の手元に初音がないことに、琴路は驚きと悲しみを感じた。琴路の思い出のなかの美しい静御前は、初音と、初音の奏でる音楽といつもともにあったから。その初音を自らの手で「捨ててしまった」とは、いったいどういうことなのか。

「……母には、お見通しでした。長尾寺で髪を剃った私が、それ以降も、俗世への思いを断ち切れず、過去に救いをもとめ、みじめに生きながらえてしまっていたことを」

 静はぽつりぽつりと話した。


(つづく)

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