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「ボクの奇妙な冒険」【短編小説】(前編)


 朝、いつもと同じ列車に乗って、いつもと同じ駅でいつもどおりの時刻に電車を降りる。そしていつもとは正反対の、つまり、中学校のある方角とは真逆の方角へ向かって走る別の電車に乗り換えた。

 そいつは、突然、やってきた。

 突然やってきて、僕の背中をぐんと強く押した。

 いつもと違う景色の中へ、飛びだしたいと言う「もう一人の僕」。みんながいる教室へ、朝八時のチャイムが鳴るぎりぎりのタイミングで駆け込んで、息を弾ませる僕を中学生の「あたりまえの日常」の中へと溶けこませてゆく「なにか」を、断固として拒もうとする「もう一人の僕」。

 僕は今朝、「もう一人の僕」の言うことに、従うことにした。

 清々しく晴れた夏の朝だった。白い雲の欠片が遠い山並みの彼方に散らばって空を飾っている。堂々たる青空を引き立たせる名脇役のような、白い雲。

 一学期がもうすぐ終わる。僕はきょうまで学校を皆勤賞だった。毎日の授業はまじめに受けたし、どの科目の成績もけっして悪くなかった。きょうからはじまる期末試験にだって、僕は周りのみんなより熱心に勉強し、備えていたと思う。そして僕はまずまずの成績を残し、その自信を僕の受験生としてのお守りのようにして、中学校最後の夏休みを迎えていたことだろう。

 部員が五人しかいない硬式テニスの部活動にも、僕は積極的に参加した。僕はテニスがあまり上手なほうではなかったけれど、練習にはちゃんと顔を出した。今月のはじめにあった公式戦にだって、万全の体調で臨んだし、コートの中で弱音を吐いたことは、いまのところ一度もない。

 僕は先生に褒められこそすれ、叱られたりすることは一度もなかった。僕は模範的な中学生だった。


 僕の知らない景色の中を、電車はぐんぐん前に進んだ。僕が通ったことのない道のりを、電車は僕に少しも遠慮することなく、全速力で駈け抜けた。僕の「毎日」が、「あたりまえの日常」が、どんどん背後へ遠ざかっていった。チャイムの音が、期末試験が、何もかもすべてが存在しない一日を、僕は迎えに行こうとしていた。いいんだ、これでいいんだ、と、「もう一人の僕」がぶっきらぼうに言う。

 昨日まで聞いていた列車の走行音と、今朝の走行音はまるで違った。乗っている車両が違うから? いや、きっとそれだけじゃない。僕を運ぶ車両はどこまでも続くレールの上を、まるで上機嫌な獣のように驀進する。低く大きな唸り声を空にとどろかせて。僕は窓の外を見た。

 僕の通う学校のある郊外の街から、僕の知らない田舎町へと、車窓の景色は移り変わった。広い田圃や畑がつぎつぎと現れ、舗装されていない道がそのあいだを通っていた。園児服を着た子供たちが大きなカートに乗せられて、仲良く散歩していた。子供たちは、朝の日差しの中できらきらしていた。カートを押す大人の姿も、爽やかな朝に見事に溶けこんでいた。

 僕は子供なんだろうか? それとも大人なんだろうか?

 すると、「もう一人の僕」が言う。

 きみはまだ、どちらでもないさ。だからこそ、見える景色もあるんじゃないの?


 昨夜、父さんとやりあった。生まれてはじめて、激しくぶつかった。父さんは、仕事一筋に生きてきた、典型的なサラリーマンだ。毎朝決まった時刻に起きて、毎朝決まった時刻に母さんの作った朝ご飯を食べる。そして決まった時刻に出社する。真面目な働き者。模範的な父親。まるで、学校での僕みたいだ。

 勉強なんかやる意味がないと、僕は父さんに言った。学校になんか行く理由はないと、僕は敢然と主張した。それは「もう一人の僕」じゃなく、僕が僕自身として言った、真剣な主張だった。そして素直な気持ちだった。

 言葉にすると、僕のむしゃくしゃはだんだんエスカレートしてきた。先生の文句を言い、友達を馬鹿にした。学校なんかローゴクだ、と少しばかり難しいことも言ってみた。

 けれど僕の「素直な気持ち」は、父さんにも母さんにも伝わらなかった。二人には相手にもされなかった。僕の投げたボールはどこにも辿り着かず、空中をさまよいつづけたあげく、やがて煙のように消えてしまった。父さんが僕をどなりつけた。「お前なんか、うちの子供じゃない!」。そのとき、「もう一人の僕」が現れて、僕の肩をぽんと叩いた。そして、あきらめたような苦笑いを浮かべた。

(後半へ続く)

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