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【小説】MAMA(同人誌「深青」3号掲載)

6月頃に応募したショートショートのコンテストの中間発表があったのですが、見事に選外でした。
https://twitter.com/PrologueNovel/status/1427600541555642372?s=20
正直あんまりいいものが書けなかったと思っていたし、選外になるのは覚悟していたんですが、それでも悲しいものです。
景気づけに(?)昔書いた、割と気に入っている小説をアップします。
よく考えたらこの小説もそんなに長くないから(2600字ぐらい)、ちょっと文章削って、これを応募したらよかったかもしれない。
まぁそんなこと言っても後のフェスティバルです。

 

  『MAMA』

 早く片付けなくちゃ。
 洗濯機の上には汚れ物が積み重なっている。子供向けサイズの、くたくたのTシャツ。鮮やかな明るい緑色だったはずのそれは、傷みと汚れでくすんだ鈍い色になっている。同じく子供用の紺色の長ズボンは、裾が擦り切れて破れ、まるで切りっぱなしの生地のようにギザギザだ。それらの子供服の上にかぶさっている、夫のワイシャツ。白地に薄ピンクのストライプが入ったデザインで、つるんと滑らかな触り心地の、ちょっと良い品物だ。それから、タオルが数枚、バスタオルやフェイスタオル。床の上には、おそらく最初は洗濯機の上に積み上げられていたが転がり落ちたのであろう靴下の片方だけがだらしなく横たわっている。
 ねえ。
 ねえ、お母さん。
 そういう声が、聞こえていた時間のことを、朝美は思い出す。翔という名前は、朝美が付けた。夫がいくつか候補を挙げて、三つまで絞り込んだ中から、朝美が一番しっくりきたものを選んだのだった。遠く、高いところまで翔べるように。のびのびと空を舞うように人生を謳歌していけるように。月並みな願いだったけれど、親が子に願うことなんて、きっとそんなに大差はない。ある限りの幸せが全部注がれたらいいと、どこまでも祈るだけだ。
 いいね、良い名前だ。
 あの時そう言って笑った夫。あれは本心だったんだろうか。せめてあの時は、あの瞬間くらいは心から翔の幸せを願っていたのだと思いたい。
 お母さん。
 お母さん。
 ねぇ、お母さん。
 子供の声ってどうして高いんだろう。朝美は床にごろりと横になったままその声を思い出している。大きな声を出さないで。うるさいって、また叩かれてしまう。いつからか、朝美は子供が話す内容よりも、そんなことにばかり意識が向くようになっていた。だから、呼びかけの後に翔が何と言ったのか、何を話したかったのか、もう思い出すこともできない。かわいそうに。もっとちゃんと話を聞いてあげれば良かった。静かにしなさい、なんて言わないで、笑顔でどうしたのと言ってあげれば良かった。だってもう話すこともできない。二度とあの可愛いほほえみを見ることもできない。
 起き上がりたい。
 朝美はそう思ったが、体はぐったりとしていて、自分の意思で動かせる気がしない。どんよりと沈んだ心がそのまま重石となって、自分の体を床に押し付けているような気分だった。なんて重い。横たわったまま、目線の先にある床の木目をぼんやりと見つめる。いつまでもこうしている訳にはいかないのに。こんなことではまた、妻として、母として失格だと怒鳴られる。夫のその怒声を、歪んだ口を、見開かれた目を、怒りに震える手を、思い出して朝美の体は硬くなっていく。暴力というのは、肉体に刻まれる記憶なのだ。そして繰り返し刻まれた記憶は、例えば数年自転車に乗っていなくても乗れと言われたら簡単に乗れてしまうように、慣れとして身体の底に染みついている。そこに夫がいなくても、大きな声を出したのが他人であっても、冷たい目線に触れると怖くなり、どこかで怒鳴り声が聞こえればそれが自分に向けられたものでなくても恐ろしい。こうしてただ横たわり、記憶の中で彼の姿を再生するだけでも、こんなにも体中が冷える。
 起き上がらなくちゃ。
 今日そう思うのはこれが一度目ではない。だが体は動かない。もう一ヶ月ほど前から、そういうことは増えていたのだった。朝が来て、充分に睡眠をとったはずなのに眠気が全く消えない。体重は減っているのに、手足が、腰が、重たくて自分の体を持ち上げるのがしんどい。
「お前なんか何もしていないのに」
「早くしろよ、トロいんだよ」
「翔が泣いてんじゃねーか、うるせーんだよ黙らせろ」
「一日中家にいるだけなのに何で疲れるんだよ」
 動けよ。
 動けって言ってんだろこの野郎。
 夫がそう言って何をしてきたのか、朝美はもう忘れてしまった。多分頬を殴ったとか腹を蹴ったとか足を踏みつけたとかそういうことだったと思うのだけれど、日々の雑務のように毎日繰り返し訪れることだから、今日やられたことがどれだったのかはもう忘れてしまった。
 早く片付けなくちゃ。
 横たわったまま朝美は、洗濯機の方を見る。
 洗濯機の上には汚れ物が積み重なっている。子供向けサイズの、くたくたのTシャツ。鮮やかな明るい緑色だったはずのそれは、傷みと汚れでくすんだ鈍い色になっている。そこから伸びる、痣の残る細い腕。ぷっくりとした手、短い指。熱湯をかけられて大きな火傷をしたのに医者にも連れていってもらえなかったから、ひどく腫れてしまっている。同じく子供用の紺色の長ズボンは、裾が擦り切れて破れ、まるで切りっぱなしの生地のようにギザギザだ。そこから伸びる足。ズボンに隠れているけれど、ふくらはぎにも、太ももにも大きな痣がある。脛には灰皿を投げつけられてできた切り傷もある。朝美は翔の小さな足を見るだけで、そうした傷の一つ一つを見ている気持ちになる。それらの子供服の上にかぶさっている、夫のワイシャツ。白地に薄ピンクのストライプが入ったデザインで、つるんと滑らかな触り心地の、ちょっと良い品物だ。真ん中に包丁が突き立てられている。それから、タオルが数枚、バスタオルやフェイスタオル。包丁の刺さった周りから溢れる血を押さえるように一応かぶせられており、赤く染まっている。床の上には、おそらく最初は洗濯機の上に積み上げられていたが転がり落ちたのであろう靴下の片方だけがだらしなく横たわっている。その上にも赤いシミが点々と付いている。
 早くあれを片付けなくちゃ。
 朝美は視界の端に洗濯機の上に積み重なったものたちをチラと捉え、しかし動き出すことはない。もう動けないのだった。翔を殴る夫を止めて、もう限界だわと叫んで包丁を振りかざしたその手を夫に掴まれ、自分が刺された。倒れる朝美の視界の端に、翔に手をかけようとする夫が見えて、それで腹に刺さった包丁を抜いて彼の背中に突き立てた。
 お母さん。
 ねえ、お母さん。
 そんな声はもう聞こえない。朝美は横たわって、ただ目線の先にある床の木目を見つめ、そこに広がっていく自分の体からこぼれ出る液体を見つめる。
 早く立ち上がらなくちゃ。立ち上がって、片付けなくちゃ。
 洗濯機の上には汚れ物が積み重なっている。


【END】



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