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朝日新聞が報道した「平和よみがえる南京」の写真特集。⑧(日本軍による虐殺などなかった証明)を紹介します。


平和よみがえる南京
 
写真特集その一
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 まず、第一回の写真特集から見てゆこう。
 タイトルは「平和甦る南京軍を《皇軍を迎へて歓喜沸く》」である。「十七日河 村特派員撮影」とあるから、南京占領五日目の写 真である。
 
 寫眞説明 ①兵隊さんの買ひ物
 占領五日目に早 くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買物を している。この日は松井軍司令官を先頭に入城式 があった日である。

 南京攻略戦に参戦された須山 道男さん(七六)はこの写真を見て「なつかしいですネ、これが本当の占領直後の南京風景です。入城式のあった十七日の午後からは、銃も持たず に支那人街の露天商をひやかして歩いた経験があ ります。この写真のように子供も大人も手製の日 の丸の腕章をつけて、私たちに近づいてきましたよ」と言う。
 

 ②皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち
 南京には城内にも畑や山がある。この写真を見た だけでも、平和が早くも甦ったという実感が湧くではないか。
 
 ③皇軍に保護される避難民の群
 城外のどこかに避難していた市民は、城内がもはや安全とみて 続々と帰ってきた。その市民を誘導している写真 である。
 ここには護衛の日本兵の姿さえ見えず、 市民の表情も明るい。光華門一番乗りを果たした 歩兵第三十六聯隊の西坂中さん(七八)は言う。
 
「われわれの部隊は占領十四日目には南京をあと にして上海に向かったが、その途中続々と南京に 帰る避難民に遭った。シナ人はそうした情報には すごく敏感だから、逃げ足も早いが、安全とみれ ばすぐ帰還します」と・・・・・・。

 松井石根大将の十二月二十日の日記には、「尚 聞く所によれば、城内残留の内外人は一時多少恐 怖の情ありしが、我軍による治安漸次落着くと共 に漸く安堵し来れり。・・・・・・人民も既に多少宛帰来せるを見る」とある。
  (全文カタカナ書き、傍点・筆者)
 
 ④和やかな床屋さん風景
 中華街の名物、街頭床屋である。子供も大人も手製の日の丸の腕章を して笑っている。占領五日目から床屋も露天商も 店を開き、兵隊は武装なしで散歩していたことが わかる。松井大将の言う「安堵の色」いっぱいで ある。
 これが何十万という大虐殺のあった街の風 景でしょうか。
 
 中国側公式見解とされる、南京市文史資料研究 委員会編「史料選輯第四輯」(昭和五十八年刊) の日本語訳「証言・南京大虐殺」(昭和五十九年 青木書店刊)によると、次のように記述している。
 
 〈一九三七年十二月十三日、日本侵略軍は南 京を侵略占領し、南京の人民に対して六週間に およぶ人事を絶する悲惨な大虐殺をおこなっ た。無辜のわが同胞で、集団殺戮に会い、死体 を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以 上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が善団体の手で埋葬された者は十五万人以上、死者総数は計三十余万人に達した。>
 
 これが中国側の言う三十万大虐殺の根拠なので ある。さらに本書はこれに続いて――。
 
 〈日本軍は入城後、人を見ると殺し、女と見 ると犯し、犯したのちさらに殺し、財物と見れ し、家屋や店舗と見れば焼いた。日本軍 の殺人の方法は多種多様で、首をはねる、頭を かち割る、腹を切りさく、心臓をえぐる、生地 埋めにする、手足をバラバラにする、生殖器を さく、女性の生殖器や肛門を突き刺す、焼き殺 す、水に投げ入れて溺れ殺す、機関銃で掃射す る等、狂暴残虐なこと、人類史上においても、 まれに見るものであった。)
 
 四ヶ月前、通州で、日本の居留民二百余名が虐 殺されたのは、この状態であった。
 
 こんな狂暴残虐な殺しかたは日本人は絶対にや らない。日本の戦史にもない。「食人風俗(カニバリズム)」の漢 民族のやる殺しかたである。自分らがやる殺しか たをそのまま記述したのだ。
 
 ともあれ、こんな恐 ろしい地獄のような恐怖の街で、この写真集に見 るような風景を撮ることができるであろうか。

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朝日新聞が報道した『平和甦る南京』の写真特集
             著者:田中正明  ( p、14~16 )

    ※ 深田先生から本の紹介の了解を得ています。
    ※ 次回も写真を載せます。



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