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仮面葡萄会

仮面をかぶった老若男女がおびただしい葡萄の山をミサのように輪になって踏みしめ踏みしめ、足を取られた貴婦人がぐずぐずに崩れた葡萄に倒れ込むのをだまって粛々と輪になって踏みしめ踏みしめ、虫の息の最後の力を振り絞って掴んだ足首が死にかけの身体の埋没と同じ速度で沈んでいくのをみなうつむきつつ輪になって踏みしめ踏みしめ、マーチは二拍子、あるいは四拍子、ワルツを踊れないことに不満を覚えた老婦人の足取りが乱れてけつまづくのを夫の老爺は彼のすべての愛をこめて踏みしめ踏みしめ、愛の足音を聴きながら輪になって踏みしめ踏みしめ、踏みしめられた老婦人とおなじ仮面をかぶってきた婦人はほっと胸をなでおろして彼女の愛人を突き飛ばし、愛人はドレスを翻して倒れ込んだけれどそこは輪の中心の無傷の葡萄が山となって隆起したところだったから愛人のレースは赤く染まらず、愛人は気恥ずかしさにあおざめて輪に戻る。仮面葡萄会はランダムな転倒を輪になって踏みしめ踏みしめ、まれに踏みしめられずに倒れ込みつづけ、あるものは名残惜しげに中央にうつぶせつづけあるものは脚が動くのを止められずに半液状の葡萄に脚だけ浸してバタ足の練習、あのかたはカナヅチですからと脚だけを輪になって踏みしめ踏みしめ、半身不随の悦楽にうっとりしてそうよわたしは歩けない。アルケミストのように歩行が霧状に雲散してかぐわしい。ワインとは酩酊の不能をひとびとに与えますから仮面葡萄会は歩行から遊泳に、立ち泳ぎの出来ない紳士はゆるやかに沈没していきます。足もとに紳士の身体が当たるたびにいくつもの眉が顰められます。顰に倣う醜女どもは苦しみながら浮遊します(脂肪は水に浮くのです)。貴婦人が沈没してからというもの顰が模倣の対象をうしなってますますふらふらと浮遊していきます。浮いた顰は踏めませんので顰は中央の山へ、いまや屹立とそそりたって首をいくらそっくり返しても頂上が見られない、そっくり返したひとから沈んでいく。おかあさんあの山の向こうにはなにがあるの。あの山には浮遊した顰が帰っていくのよ、顰は山から来て山へ帰るの、あそこで沈んでいくひとも山へ帰るのよ。あのひとたちは顰なのおかあさん。顰ではないけれど同じようなものよ、みんな山へ帰るのだものわたしもきみも……おや人違い、坊や、あたしはママじゃないよ。あたしに子どもはいないもの。生きた子どもも死んだ子どもも想像妊娠もしたことがない。きみのママはどこにいるの。ママはいないの。そうか、そうよね、泳ぎ方をしらないのに溺れないのは、坊やが水の子だからだね水子だからだね、水子に母はあっても水子を生んだ女は母になり損ねる、坊やは哀れだねえさあいっしょに山に行こうか。女は水子を抱いて泳ぎをやめる。水子は死んだように母乳の出ない女の乳房を口に含んで貪りつづける。仮面葡萄会は赤い液体を踏みしめ踏みしめ、いつしか液体はおのずから流れだし、疲れた参加者がひとり、またひとりと泳ぐのをやめてもなお流れつづけ、やがてひとりも動かなくなっても流れつづけ、老若男女は音もなく流れ流れ、マーチもワルツもロックもメタルもなにもかもがいつかなくなる。

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