ASD,ADHDと診断されたオタクが自力で障害年金2級の遡及申請をした話

こんにちは。オタクです。

ASD,ADHDと診断されてから2年程、障害者手帳を取得して1年経ちました。そして本日障害年金2級支給が決定しました。二年後に診断書を提出すれば良いともなっており、一年後提出だとも思っていたので私自身びっくりしております。

でもこれまでの道のりを振り返ると本当に私にとっては苦難の道ばかりで。それを書き残さないのはなんだかなあと思って唯一生き残っていたブログ形式で書けるnoteにたどり着きました。ざっくりとですが年金支給決定までの道のりを残しておきます。

まず私が
・20歳から現在に至るまで学生特例納付制度を利用していた
という点が普通の方と違う点かと思いますので先に書いておきます。高校卒業後すぐに放送大学に入学し、休学を2回挟んでいますが現在も在学しています。

そんな状態でも障害年金申請には何も問題はなかったので、不安に思っている方は学生特例納付制度利用者でも申請できますよと申し上げておきます。

ここから本題。
まずはなぜ、障害者手帳取得や障害年金申請に至ったのか。いつどうやってASD,ADHDであると分かったのか。こういったところから書いていきます。

きっかけは、一番長く続いていたアルバイト先の閉店でしょうか。閉店する前に次の職を探さないと!と思ったと同時に、高校在学中から当時に至るまで接客業しか経験しておらず、私って接客業には向いていないなあ…と年々感じるようになっていたので、そうだ、転職もしよう!と一念発起したあの時。転職がなければ私は現在も自分の困り感などに気付けなかったかもしれない。人よりミスが多くて、人より怒りやすくて、顔に表情が出やすくて、人より働いてないのに誰よりも疲れてる。転職前はそれがデフォルトでした。みんなそうだろうと思っていたし、みんなやれてるのになんで私こんなにミスをするんだろうって落ち込んでた私に言いたい。早く病院行け。

転職といっても閉店前のバイトと並行してさせてもらっていたので、閉店するまではバイト先が本業といった形でのスタートでした。場所はコールセンター。ここでの問題の噴出度がこれまでの比ではなかった。座学やデータ入力はむしろ得意な方で、同時期に入った方よりも早くできたのですが、実務の電話になった途端、あれ…?って思うことがたくさん起きました。

「人の話聞いてる?」

トレーニング中一番言われたことです。同時期に入った方にすぐ追い抜かされました。本当に聞いてます。なんならお客さんがいったこと一言一句思い出せるし復唱できます。それでも。「人の話聞いてる?」。もう絶望しかありませんでした。日に日に出勤が嫌になるし、電話の音をいままでなんとも思っていなかったのに若干怯えるんですね。あと本当に自分が人の話が聞けてないのかもしれないと恐怖の気持ちでいっぱいになるんです。結局ずっと横に人がついている状態でないと電話を取ることは許可がおりることはありませんでした。辞める前に聞いたのですが、同時期に入った方はコールセンター経験者。私は接客業経験者7年とかのコールセンター未経験者。先に言っててくれよ、と思ったし焦らなくて済んだじゃんと思ったし、そこまで絶望せずに済んだのになあと思わなくもないですが。自分が人としてのスタートが違うとはっきり自覚した出来事でもあったのでそれまでと違うことをしてみてよかったなと思っています。

幸福なことに、私はその年のはじめ、今も通っている病院に初診の予約をしていました。これがなかったら多分、今生きてなかったのではないかと思います。冗談抜きに。予約が取れたのは三ヶ月後でしたが、それでも本当にその診察の予約があるってだけでなんとか乗り越えられました。その日に精神病院にかかれる。もしかしたらこれまでの私の状況が変わるかもしれない。転職が2月、そして電話を取り始めたのが3月頃ですから今の状況も絶対話そうという気持ちだけで生きていました。悩んでいる方には絶対何ヶ月先でも予約だけは取っておいてほしいとだけは言っておきます。全然心の持ちようが違います。

ていうかお前病院どう探したん?って質問があったらいけないのでこちらも書いておきます。私は交通手段が限られるので知っている病院に駆け込むという方法が取れませんでした。というよりそこに行くにはバスに長時間乗らなければならず、行きたくなかったというほうが正しいでしょうか。自動車運転免許も所持していないので、交通手段なども加味して自分で大人の発達障害の検査も可能な病院を探すには限度がありました。GoogleMapを用いても遠ーーくの病院しか出てきませんでしたし。

そこで私は地域の発達障害の方が利用できるクローバーというところを利用しました。最初は県の発達障害を相談できるところにメールしたのですが(とにかく電話が嫌)、市のクローバーなら近いですしと教えていただいたので、そこにまず電話をかけてみました。かけるまで一週間くらいかかりましたが。電話口でまだ未診断なこと、でも最近職場で発達障害かも?と悩んでいて調べたいこと、大人の発達障害の検査ができる病院が良いこと、バスが嫌でできれば電車で行けてなおかつ駅近が良いことなどわがままをたくさん申し上げましたが、一つ一つ丁寧に聞き取ってくださり、条件に合う病院を提示してくださいました。予約は自分でしないといけないし、検査ができるかも分からないけど、クローバーからの紹介ですとクローバーさんの名前を出しても良いと言ってくださり、おかげで予約もスムーズに取れたように思います。予約の電話先に看護師さんがタイミングよく来てくれたのも幸いしました。

そんなこんなで初診の2020年4月。え、まだそんな?と思わないでもないですがこの日に行ってなかったら本当に本当に、今日までの心の持ちようが違ったので、この日に行けてよかったです。もう一度言いますが、悩んでいる方は発達障害じゃなくても精神病院にかかるという選択肢を持っておくと楽です。ヤバいと思う少し前、まだ電話ができるときに予約だけでも取っておくことが後々自分を救います。病院に何度も救ってもらいました。どう救われたかはこれから書いていきますが、本当にかかりつけの病院があるだけで違うんです。悩んでたらまず予約。だいたい発達障害の場合予約は数ヶ月待ちです。きっと今も。すぐ取れたら本当に幸運です。

まず初診の日は簡単なADHDの設問を選ぶやつと(語彙よ)、看護師さんからの詳細の聞き取り、そして医師からの診察でしたから1時間…いえ2時間かかったかと思います。Google Mapのタイムラインを見たら2時間超えてて今更ビビりました。ですが思っていたより診察料は取られなくて安心しました。そして幸いにも、私は次の診察で検査をしてみましょうと言ってもらえたのでより気が楽になりました。それまでの人生疑惑しかなかったのでこれでわかるんだ、と本当に嬉しかった。

二回目。検査は三時間弱かかったようです。でも検査料も思ってたよりは…とすごく安堵したのを覚えています。検査料も診察料も高い例ばかり見ていたので、紹介してもらえてよかったなとも思いました。紹介、おすすめです。

三回目。結果を聞きに行きました。検査の紙をいただいて拝見したところ、予想通りの凹凸。検査の紙は今も持っていますが、そこに"単なる得意不得意でなく、問題なく出来るところとできないところが、はっきりしていると思われます。"と書いてあって、これまで私が苦手だなとおもっていたことって本気のできないやつだったのか…となんだか納得しました。そして最初ADHDの検査で通院していたのですが、自分の症状などを調べるうちにASDの疑念も深まっており…。検査のグラフのもとになる数字も軒並み低い中更に凹凸がある状況で、あー私IQ低いんだ〜って少し悲しかった。

そして先生も色々調べられてはいらっしゃるだろうけど…との言葉とともに自閉症スペクトラムとそしてADHD(注意欠陥,多動性障害)であるだろうと診断がおりました。ASDのほうはそうでなければと思っていましたが、そうであることを自分がその日までに自覚できる材料が多すぎて、診断自体はショックではなかったです。

ただ、生まれたときから兆候はあったのではないかとか、父からの遺伝なのではないかとか今でも少し悔しい気持ちがあります。きっと私の最初の病院にかかるチャンスは中学校の不登校時代でした。学校に行ったのは合計一年もないと思います。でも学校に行くくらいなら死んだほうがマシと、両親の喧嘩が苛烈を極めても父が出て行っても学校には行きませんでした。当時は朝起きれなくて起立性調節障害の診断はおりましたが、薬が当時嫌で嫌であと薬を飲んだら学校に行かなくてはいけないので一ヶ月分くらい飲んで薬はもらいにいかなくなりました。このとき家族で精神病院に行く選択肢があればなあ。まあ両親が体面を気にする人だったので、精神病院ぶちこむぞと脅されはしても行くことはなかったです。今となれば精神病院は脅しの材料でなく私のために連れて行ってほしかったですが、自分で行動できるようになってからでも行けて良かったです。(なんの話?コーナー)

先述の通り母は割と父よりはマシですが体面を気にする人なので、病院に行くことは言わないで行きました。検査すらできないかもって思って言わずにいましたが、三ヶ月程度で診断が出てしまい、先生にも母に診断結果を言ってそこから薬を飲むか検討しましょうと言われましたが、母に言うまで一年以上かかりました❤もちろん通院できていません。今思えばめちゃくちゃ通院したかったけど、母に言うのは本当に大きな壁でもう私はこのままいきていこうと思っていました。が、検査の紙にも書かれていた"自分のできることが分かっていなくて自分の許容範囲を超えたことをしてしまう"が完全に今思えば、通院できていなかった一年を表していて…。自分でなんでもかんでもやろうとしてしまうのは今も健在ですが、相談できるところに相談することは本当に大事です。通院できていなかった私にも言う。病院は行け。

しかし、当時はバイト先の閉店と今後のバイト先のことしか考えられず、そこに母に障害の話を告げるなんていう一大イベントを入れられても私には対応できなかったんですね。本当にキャパオーバー。有給消化中になんとか次の職を探さないといけなかった。オタ活のために。(アイカツ格言:オタ活はほどほどに!)

9月に閉店と有給消化をしたのですが、閉店したところでは雇用保険に入れるまでは時間数を入れてもらってなかったので残金的にも12月がリミットでした。診断も降りたしと、就労支援のセンターに行ったのですがコロナで障害者雇用の求人がなく、これまでの職種をしていかれては?と言われて障害者雇用は挫折しました。本当に本当に嫌でしたが他に職の当てなどなく、12月にまた接客業に戻りました。そこで一年ほど働いている最中、母と大喧嘩しその際やっと言えました。母との喧嘩は私のこだわりが気持ち悪いと言われたことがきっかけでしたが、こだわるのが私の特性なのでうるせえんだよてめえは何もしらないくせに!と金切り声で叫んで障害のことを言って、そこからほぼ通夜状態。それでも母に言ってからやっと病院で障害者手帳・自立支援・障害年金の話に移れて、通院も再開できました、同居している母に何も言わずにいたのは後悔しているし、通院もできてたら、新しい職場でも当たり前のように困ったりストレスを抱えていたので困り事を相談できたのにと思います。両親がいるならどうにかこうにか話すことが大事だなと思います。理解は得られなくても。2021年は自分の首を絞めてたなあと思います。

そして次にやっと取り掛かれたのは障害者手帳と自立支援制度。2020年の7月に診断されたのに、2021年11月にやっと始動。診断書も出すのが時間かかりましたね。障害者手帳を振り返るに、12月10何日とかに出したのですが診断書は絶対11月末には書いてもらってるんですよ。今もですけど、市役所とかハローワークとか行くまでが億劫で、行かないといけない日ではあってももはや外に出たくないんですよね。でもこの頃娯楽に関することなら俊敏だった。オタクだから。

母が私の今後が不安だと言っていたので、それも踏まえて昨年1月頃、障害年金の話になりましたが、障害年金の書類が今振り返ってもイーーッてなるくらい書くのが面倒で!病歴・就労状況等申立書!本当に大嫌いです!今も!イーーッ!病院に決まった日にちにケースワーカーの方がいらっしゃるようで、書けたら持ってきてくださいとは言われてたんですが手を付けたくなさすぎて5月くらいまで結局手を付けませんでした。自分の経歴を3年ごとくらいに書いてくださいと言われましたが、3年ごとに書けるなら苦労はしとらんのですよ。無理じゃ!って本当に放棄(笑)でも心の隅にはあるからずっと病歴・就労申立書のことを考え続けてないといけなくて、ストレスの極みでした。

転機は上司からのパワハラでしょうか…。37度から下がらない熱に激しい咳、コロナは陰性だったのですがとてもじゃないけど接客なんてできなくて喋るのもしんどくて。なんとか出勤しても熱が上がって早退、でも早退してからも代わりを立ててから休んで!出て!と恫喝され続け、完全に心が折れました。結局昨年4月末に結局退職したのですが、退職前に仕事に行けていないことを病院に相談したら(まだ年金の書類はかけてなかったけどそうもいっていられなかったので)、先生に一ヶ月の休職命令を出していただけました。休職命令がなかったら電話が怖くなってしまって連絡もできてなかったから無断欠勤も無断欠勤だったので本当に助かりました。でも辞めるとなったら自分の経済状況が途端に心配になってきて、取り掛かるぞ…と発破をかけられたので、前職場に感謝してます。

が、病歴・就労状況等申立書くん本当に取り掛かってもきついんですよ。詳細に書いた方が良いから書くけど文章構成力がないのでスマホのメモ帳にとりあえず覚えてること全部書いて、何年何月がどれくらいの時期かも間違えたら書き直しなのでこれがこうでああでって整合性もなんとか整えて…年金の書類書くのがなんだかんだ一番きつかった。申立書くんを書いても終わりじゃなかったけど書いてる間本当に吐くかと思った。自分の離職履歴がとんでもなくて引きますし、学校生活もクソ野郎だなって引きますし、自分のことがめちゃくちゃ嫌になるのでこれを書かせようって考えた人は人間なんか?って思います。私はまだ30年未満の振り返りで済みましたし、記憶力が無駄に良くて幼稚園頃のことまで覚えてるので覚えてるの書いていらんところ削除で済みましたが、みんなここどう乗り越えてるんだ…?嫌すぎてここで挫折した人たくさんいるでしょ。特に発達障害。私は10回挫折した。結局やれてしまいましたが、文章書くのが好き(得意ではない)なのが不幸中の幸いでしたね。でも本当にやるまで・やってる最中がきつすぎる。本当に何を考えてこれをさせようとしたんですか…。本当に嫌でした…。

参考になるかもしれないので書きますが、
・小学校から登校拒否気味
・中学校不登校 登校日数一年未満
・夜間定時制高校 離職2回 2回共半年未満
・放送大学 離職8回前後 最長3年 最短10日
小学校から運動が極度に苦手 理数系も苦手
国語と数学の点数差90点以上 マルチタスクがこなせない 自分の中の決まり事が崩れた途端他も総崩れする 無断欠勤からの退職が多い
こんなことを書きました。あと飲食の仕事があまりにもできなかったことも書いたかな。書いてるうちにこの私のクズエピソードが私の障害を表してくれるならとことん包み隠さず書こうって過去の職歴全部調べ直して詳細に書きました。履歴書は3年続いたバイトからしか書いたことないので過去の職歴調べるのも大変だった…。改めて3年続いた職場が奇跡だったし、そこが閉店しなかったら今も疑惑だけで済ませてたなあって背筋が凍りましたけど、気付けてよかったなって心から思います。

そういえば退職したので失業保険もおりたのでした。最近の私の主な収入源の話もさせていただきます。ご存知な方が多いかと思いますが、障害者手帳を所持していたら失業手当の日数が雇用保険1年以上加入で300日いただけるんですよね。主治医の意見書で3000円ほど必要でしたし、休職の診断書も同じくらい必要でしたので5,6月は精神病院関連で気が遠のくほどお金が飛んでいきましたが、診断書料を支払ってでも障害者専用窓口で就職活動をさせてもらえてよかったです。普通の方の窓口での就職活動だったら多分待ち時間の長さで行かなくなってしまうと思います。診断おりてなくて手帳も持ってなかったら90日で失業手当がなくなってまたやりたくない接客業に戻らないといけませんでしたから…。接客業などの人と接する職を紹介されてもお断りしているので100日を切った今も全くバイト先すら見つかっていないのですが90日のままだったら本当に詰みでしたから、障害者手帳と主治医に頭が上がりません。面接まで行けても不採用ですし、書類選考でも不採用になったりしてるので就職困難者だということを実感している昨今ですが、良い職場が見つかればなと思います。

年金の話に戻って。私は年金の申請を市役所の年金課でさせてもらいました。年金の診断書は初回だったので診断書が5,6千円かかると言われひっくり返りました。でも最初に申請に行ったときは、もう時間も経ってましたから初診から一年半の2021年10月頃の診断書ではなく2022年6月頃の私の診断書を持っていったんです。遡及なんてできるはずないと主治医も私も思ってましたから、これで出してもらえるなら遡りなんてしなくて良いと思って。でも年金課の方に「初診から一年半ごろに診察に行かれてますか?」と聞かれ、ちょうど障害者手帳の申請や母に言った時期だったので行ってると答えたら「初診から一年半、そこから3ヶ月以内の診断書が必要です」と言われ、私先生の言う通り持ってきただけなのに…!?って若干キレかけましたし何いってんだこの人私にまた病院に行けってこと?先生に診断書の日付違ってますと言えってこと?って混乱しましたが、今なら言えます。年金課の方、遡及のこと諦めずに勧めてくれてありがとう。第二の挫折ターンでしたけどね。さらなるお願いをしにいくこと、なんなら先生やっぱり初診から一年半の日付でしたよなんて私にはとても言えなくてそこから三ヶ月くらい放置しました。もう障害年金なんかしらん。年金課の方も先生もみんなよくわからんしらん!と放棄。私の理解に及ばないことされると毎回こうやってショートして思考放棄してしまうんですが、市役所も病院も私にもっと優しくならん?とは思います。未だに。

でもやっぱり申請はしたいので追加で診断書をお願いして4,5千円…診断書だけで1万円かかっとるやん…と若干よろめきましたが、何回も言うけどやっぱり障害年金が出るかもしれないなら申請はしたいんですよね。申請したくないとは一言も言ってない。ただ、ただどうしてこんなにだるいの!?!???!??とは叫びたい。どうしてこんなにだるくしたの!?!?!??!

そして年金課に再び行くまでも行きたくない病を発動して、2回くらい当日キャンセルをかましました。年金課に行かないといけないと思ったら寝れなくて起きるくらいなら死ぬと思ったりして。〜するなら死ぬ、私の代名詞すぎる。でも当時は本気なんです。それくらい嫌。だから体調が悪いって毎回電話して…。やっと行けたとき時間を一番遅く設定させてもらって、2分遅刻で窓口にたどり着きました。よく受け付けてくださいましたよ…。

年金課の方が書類を添削してくださったのも助かりました。診断書と病歴申立書の診断名が違ったので書き直したりなどのハプニングはありましたが、書類を出す前に見ていただけるので来渋ってすみません…となりました。診断書かきかおしてもらってくださいと言われたときから年金課を敵認定してたのかも。敵じゃなかったのに私ときたら。結局年金申請のときの病名は広汎性発達障害と注意欠陥・多動性障害だったかと思います。添削なしでASD,ADHDと書いたままだったかもしれないと思うと年金課のお兄さんに足を向けて寝られないです。あと私の市だけかもしれませんが、障害年金生活者支援給付金の申請書も同時に提出することができたので自分から言わないといけないと思っていたのでそちらも助かりました。今回受給できたので、障害年金生活者支援給付金も上乗せさせていただけるのでしょうか…?初回支払いの通知はまだなのでおそらく来月以降でしょうね。そのときにまた確認したいです。

2級が通ったのは先生の診断書のおかげが大きいと思っていますが、遡及の申請が通った理由はさっぱりわからないのです。参考になるかもしれないので私の診断書の就労状況も追記しておきます。
・週5 4時間勤務 月8万
先生にこれじゃ厳しいかもとは言われましたし、遡及は通らないだろうけどと何度か言われました
本当に遡及が通ったのが奇跡だと思っているので、遡及を通ったのはどうして!?というのは私が聞きたいです。あまりにも障害が重いからと言われたらあっ…🤦と頭を抱えながら納得します(?)
※自立支援は重度かつ継続に該当しております

自力でやっても年金支給が通るときは通るよという旨を書いておきたかったので、長々と書きましたが障害年金を望む方全てに支給されますことをお祈りしております。

私自身も通院を欠かさず主治医の言うことをよくきいて、自らの障害と向き合っていきたいと思います。またなにかありましたらこちらで更新いたします。ここまでよんでいただきありがとうございました。

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