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濡れたままで

 晴れた日が何日か続き、さすがに降るんじゃないかと思った矢先、駅を出ると見事に土砂降りだった。家までは徒歩十分程。不幸中の幸いか、手荷物は少ない。傘を買おうかとも思ったが、コンビニエンスストアとは逆方向に大きく一歩踏み出した。濡れてしまえばいいと思った。傘を殆どささない国があると聞いた。どれだけ降ろうが、人はほとんど歩き、たまに小走りをする程度だという。
 当然と思っていることは、当然じゃなかったりする。
 大通りから、一本西の路地に入る。たちまち木造の住居が軒を連ねる。Tシャツはすっかり諦めたように肌に貼りついている。雨雲のせいで夕陽は見えない。もう沈んでしまったのかもしれない。灰色から微かに黒へと染まるグラデーションは、夜の手前を知らせてくれる。しんとしている。分厚い雲は音まで遮断するのだろうか。逞しい雨のアスファルトに弾く音だけが僕の回りを包む。

 祖父の訃報を聞いたのは、行列をなす、昼の大学内の食堂に並んでいる時だった。母からのメールだった。ーおじいちゃんが亡くなりました。お父さんとこれから向かうので数日家を空けますー自分の父親が亡くなった割に落ち着いているように見えた。文面からは読み取れなかった。思えば、祖父がそんな状態にあることも知らなかった。もしかすると、母親は口にしていたかもしれない。聞き流していただけかもしれない。向かうとなれば、半日かかる祖父の家。最後に行ったのはいつだろう。祖母が亡くなった時か。哀しいかと訊かれれば、閉口してしまう。
 それでも、僕は、昼食を食べずに食堂を後にした。人の死とあまりにもかけはなれた場所に居る気がした。今から生きようとするものが所狭しと居るその空間が、僕を複雑にさせた。賑わう声と笑顔の人間が奇妙に思えた。顔もはっきり思い出せない祖父は、最後に何を食べたのだろう。

 午後からの講義には出ず、そのまま駅に向かった。大学から最寄りの駅までの直結のバスに乗って二十分程かかる道を歩いた。歩き出してすぐに、汗が滲むのがわかった。
 思い出すのは、従兄弟達と祖父の家の近くの川で水遊びをしたことや、前の晩にたっぷり蜜を塗りつけたくぬぎの木に、カブトムシを捕まえに行った夜明け前の空だった。祖父の顔は輪郭を持たないまま、山の中へと歩いて行く。線香の匂いがする祖父の後ろを出来るだけぴったり半ば小走りに付いていく。
 
 駅に着き、電車に乗り込む。片道二時間の通学。帰って誰も居ないならと思い、駅直結のスーパーに入る。
 じん屋さんという小さな商店があった。在所の中の小さな小さな五坪程のスーパーマーケット。駄菓子から缶詰め、菓子パン、生鮮食品、ライター、線香、ヤカンまで売っている。百円玉を握りしめ、祖父に連れられよく行った。お菓子を選ぶ間、祖父は店先で煙草を吸っている。僕の視界からは、畑仕事で焼けた大きな皺の入った手が見える。買い終わった僕に「買うたか」と言う。顔のない祖父は来た道を戻る。煙の香ばしいようないい匂いがする。

 カンカンと消防車の音がする。こんな雨の中、火事など起きるのだろうか。
 当然と思っていることは、当然じゃなかったりする。
 三年前に祖母が亡くなり、祖父は一人で暮らしていた。あの小さな町で、祖父はどんな風に過ごしたのだろう。山に囲まれた静かなあの場所で。祖母とは仲が良かったように思う。二人で畑に向かい、二人で休憩し、二人で家に帰る。座椅子に座り、熱いお茶を片手に、いつまでも話していた気がする。
 三年前、一人になった祖父は、見つめるものがなくなり、何を見て何を思っていたのだろう。両親がこっちに来るか、と声をかけたときも、祖父は断ったという。僕が想う彼の景色は灰色でどうにも色が帯びてこない。傲慢な気がして自分を恨めしく思う。
 親戚が集まる正月は、大好きだった。必ず祖母がかやくご飯を炊いてくれた。醤油が少ないのか薄味で、だけどほんのり甘いかやくご飯。チラシ寿司の日があって、誰に言うともなくがっかりした日があった。祖母と並んで母親たちは、男の宴会の為に忙しなく動いていた。祖父と父親らは、いつまでも酒を呑んでいた。僕たち子供は、初めのうちこそ久々の再会で表情も強張っていたが、まもなく連れだって川で遊んだりした。帰るのが嫌で泣いた日もあった。そんなとき祖父は、大きなしわくちゃの手で笑いながら頭を撫でてくれた。線香と煙草の混ざった匂いが好きだった。涙をぬぐいながら上を見上げると、祖母がにっこりする横で赤ら顔の祖父も笑っていた。
 瞬間、僕が想う景色に、色が帯びる。じん屋さんからの帰り道、雨が降りだした日があった。もちろん傘などない僕たちは、走ることもなく歩いた。雨に濡れながら歩いた。ふと立ち止まり、祖父は煙草に火を付ける。
 「こんなことしてたら、なんか降ってないみたいやろ」と、にやりと笑う。
 
 僕は、家に着き、濡れたままの格好で、スーパーで買ったかやくご飯のおにぎりを食べる。
 
 

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。