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カナルタ、セバスティアン

映画『カナルタ 螺旋状の夢』主演の1人であるセバスティアン・ツァマラインが、9月8日に息を引き取りました。2019年に最後に彼の元を訪ねたあと、少しずつ体調を崩していき、最後は全身に癌が転移した状態でした。

去年10月に劇場公開が始まった頃にはかなり病状が悪化していて、都会で入院することもしばしばでした。そしてここ半年は、彼の病状が急変したと彼の家族から聞くたびに死を覚悟したことが何度もあり、その度に涙が溢れ出そうになっていました。

しかし、映画を届けることが何よりも彼が与えてくれたことに対して報いることだと思い、彼の病状に関しては今まで語らずにきました。映画の中で弾けるような生き生きとした姿を見せる彼を通して、アマゾンの森の世界について多くの人に伝えることがまず何よりも必要だと思ったからです。それによって様々な問いを投げかけ、現代の価値観の根幹をもう一度考えるきっかけになれば、そして歴史からほとんど抹消されている彼らの生き方が世に伝わればいいという一心でした。

舞台挨拶やメディアによるインタビューで、そして様々な機会で出会った人たちに「彼らは今も元気ですか?」と聞かれるたびに、彼に思いを馳せました。異なる世界に目を見開かれ、興味津々でご質問をくださる人々に出会う度に「セバスティアン、見てるか?みんなに届いてるよ。見ててくれ、もっともっと、たくさんの人たちに届けるから」と、できる限りの想念を地球の裏側に送っていました。

僕が映画を届けることで、彼らに報いたかった。アマゾンに行ったときも死んでもいいと思っていたけれど、この映画を届ける過程で自分が受けるリスクは全て引き受け、何があっても絶対に筋を通そうと思っていた。そして彼の体調が回復した暁には、映画の外部でもプロジェクトを立ち上げ、彼らと一緒に森を守り、森について知り、世界をつなぐ活動を共に実現したかった。しかし現実はときにとても残酷なもので、僕が頑張れば頑張るほど、それと反比例するように彼の病状は悪化していきました。

セバスティアンは、数え切れないほどの知恵を僕に授けてくれた。何者にも頼らず、本も読まず、ただ森に生き、自分の肉体と感性を通して物事を探究し続けることで、彼は壮大な思想と強靭な生き様を作り上げた。愛するということ、敬意を持つということ、本当の幸せはどこにあるのかということ、森の動物たちが教えてくれること、夢が教えてくれること、薬草が教えてくれること、森の歩き方、観察の仕方、シュアールに伝わる歌や神話や踊り、即興で試してみること、今はそれほど行われていないけど本当は大事な様々な風習、そして何よりも、人はどんな状況でもどんな境遇でも、ゼロから自分を信じることで未知の世界を切り開くことができるということ。それまでの生き方や発想を根底から覆された僕は、彼の元で「ナンキ」としてもう一度生まれ、彼の「息子」として、アマゾンの森の流儀を全身に染み込ませた。

もうセバスティアンの肉声を聞くことができないと思うと、とても辛い。彼の知恵にもう触れることができないと思うと、この広い世界に1人で取り残されたような気持ちになる。彼の知恵は森の中に霧散し、雨となり空気となり、やがて誰かの夢に精霊となって現れるのだろうか。何も文字として残さず、一瞬で消えてしまう偉大な魂。やっぱり、これがアマゾンだ。全ては流動の中にあり、無限の生成だけがある。今でも僕は、アマゾンに心の一部を置いてきているんだな。

アマゾンの森で、変幻自在の彼の世界観に触れながら、いかに単純な記録が意味をなさないか、いかに近代科学と呼ばれるものが物事の機微を矮小化してきたのかを痛感したことで、僕は新しいアプローチでの研究や作品制作を模索した。捉えるべきは枝葉の知識のリストではなく、知恵を自ら紡ぐことのできる感性と、能動的な存在の在り方なのだ。全てが儚く現れては消えていくアマゾンの森で、人間が存在するために変わらず必要なものは、それしかない。それこそ僕が全身で浴び、外の世界に伝えるべきことだと思った。

彼との旅はまだ終わらない。映画そのものが消えるそのときまで、僕の肉体が尽きるまで、僕は彼と旅をし続ける。彼の肉体はこの世を去ったけれど、彼の命は『カナルタ』の中に生き続ける。彼が命を削って僕に授けてくれたものの本質は、余すところなく『カナルタ』の中で表現されている。

ありがとう、セバスティアン。どうか安らかに。そしていつか、精霊になったセバスティアンに、アマゾンの森で再会できることを願ってる。カナルタ!

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