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【小説】ママとガール[1]「白の勝負スーツ」

 街道の両端は、満開の桜の木に埋め尽くされていた。桜の花びらがふっと目の前を横切り、きら子はその花びらを掴もうとして手を伸ばした。
「きらちゃん、綺麗だね」
 きら子の少し前を歩く夢子が振り返り、言った。
「うん、すごく」
 そう言って、きら子は手のひらに掴んだ桜の花びらを見せた。
「見て、捕まえた」
 夢子が笑って、きら子の髪の毛に手を伸ばした。
「髪の毛にもついてるよ」
 そう言って、夢子が小さく笑った。
その時、夢子が手を伸ばし、空を指した。
「見て、きらちゃん。星が出てる」
 夕暮れが近付き、微かに色を薄くした空の東に、一番星が瞬いていた。
「本当だ」
 きら子は星を見上げ、呟いた。夢子が、振り向いて言った。
「ねぇ、覚えてる? きらちゃんの名前の由来」
 きら子は、満面の笑みで言った。
「忘れる訳、ないよ」
 
1「白の勝負スーツ」
 
 うなり声をあげながら、ベッドの上でのた打ち回る夢子を、きら子は腰に手を当て見下ろしていた。

「頭ががんがんする……。物凄く気持ち悪い」

 夢子がえづきながらそう言う。きら子はため息を吐いて、言った。

「全くどうして二日酔いになるってわかっていて、そんなに飲むの? お母さんの考える事、私には理解不能」

 時刻は朝の八時。窓の外には晴れ渡った空が開けていた。窓のカーテンが柔らかく揺れ、若葉の香りをはらんだ風が吹き込む。だが、その香りは部屋中に立ち込める酒の臭いであっという間にかき消された。きら子は、ベッドの上で四つんばいの姿勢のまま動けなくなっている夢子に、もう一度、ため息をついた。

「きらちゃん、私、本当に頭痛い。死ぬかも」

 夢子が、涙目でそう言う。昨日、夢子が帰ってきたのは午前三時。靴を脱ぐ時、夢子は玄関で派手に転び、ドアノブで頭を打った。きら子は、呆れながら腕組みをして答えた。

「二日酔いと昨日のたんこぶのせいだね。そりゃあ、痛いだろうけど、死なないって。はい、そろそろ会社でしょ。起きなきゃ」
「無理」
「母親に二日酔いで死ぬかも、なんて言われる私の方が無理」

 その答えに、夢子は大きくうな垂れた。

 きら子は、現在十四歳。中学二年生だ。そして、母、夢子は三十四歳。二十歳できら子を産んだ。きら子の父親は、この家にはいない。きら子が小学校六年生の時に夢子と父は離婚しているからだ。

 時刻が、午前八時半を回った。きら子は一向に動き出さない夢子を洗面所に連れて行き、言った。

「お母さんが顔を洗っている間、服を用意しておくから。今日、プレゼンなの? じゃあスーツでいいよね」
「はい……。白の勝負スーツでお願いします……」

 断末魔のような声で、夢子が言った。
 それからの三十分で、きら子は夢子に二日酔いに効くグレープフルーツジュースを飲ませ、化粧をさせ、服を着替えさせ、靴を決め、バッグの中に資料や名刺入れが入っているかどうかを確認し、靴を磨いた。

「きらちゃんがいてくれてよかった」

 何とか具合が良くなった夢子は、そう言って九時過ぎに出て行った。幸い、広告代理店に勤める夢子の出社時刻は午前十時だ。ぎりぎり、間に合った。きら子はようやく静かになった部屋で伸びをした。

 あたりを見回すと、夢子が電線させたストッキングが廊下に落ちていた。きら子はそれを拾い上げ、ごみ箱の中に入れた。

「いてくれてよかったなら、よかった」

 きら子はそう呟いて少し笑い、自分の朝食の用意を始めた。
 
 きら子は、学校に行っていない不登校児だ。きら子が学校に行かなくなったのは中学一年の五月だった。

 きら子が小学校を卒業した三月に、夢子と父は離婚した。きら子はそれまで多摩の新興住宅地に住んでいたが、両親の離婚を機に今の世田谷区内に引っ越し、見知らぬ人間ばかりの土地で中学に進学する事になった。

 入学式当日。制服に身を包んで、きら子は家を出た。家から学校までは徒歩十五分程だ。行く道には、まだぶかぶかの制服を着た新入生とおぼしき生徒達が歩いていた。道行く生徒は誰もが抜け道を知っているようで、住宅街へと向かう細い道を入っていった。

「一緒のクラスになれるかな」
「制服どきどきする」

 そんな会話をしつつ、連れ立って歩いている生徒もいる。

 この土地に越してきてまだ一週間も経っていないきら子は、一人で車の多い街道沿いを歩いていた。住宅地の中の細い道を歩くと、道に迷ってしまいそうだった。

 校舎はコの字型で、体育館と職員室などがある校舎、そして教室がある校舎と二つに分かれていた。入学式を終えた後、出席番号順に割り当てられた席に、きら子は腰を下ろした。この学校に来る生徒は、大抵、近隣の三つの小学校の内のどれかに通っていたようで、クラス内では誰もが「何小?」と話を始めている。きら子は輪の中に入れないまま、あたりを見回した。すると、後ろから肩を叩かれた。

「どこから来たの? 私は第二小」

 きら子の後ろに座っていた、そばかすと八重歯が目立つ女子が笑顔で言った。物怖じしない様子の彼女に、きら子は一瞬びくりとした。だが、何とか口を開き、答えた。

「私、ここが地元じゃないの。多摩の方から来たの」
「え、そうなんだ。引っ越し?」
「うん」
「じゃあ寂しいね。友達になろうよ」

 彼女の発言に、きら子は驚いた。これだけの会話で友達になる事を決めてしまってよいのだろうか。そう思ったけれど、きら子は小さく頷いた。

「私は山根。皆、山根ちゃんって呼ぶよ」
「私は南。南きら子」

 どぎまぎしながら、けれども、ほっとしながら、きら子はそう名乗った。

「よろしくね。きら子ちゃん」

 山根の笑顔に、きら子はもう一度、頷いた。
 山根は、きら子と同じ方向に住んでいて、帰宅の道筋が一緒だった。家の方向が一緒だった事を山根は喜んでいた。

「だって学校までの時間って長いじゃない。一人で歩いていると、いじめられているみたいに見えるし。だから、一緒の子がいてよかった」

 その言葉に釈然としない気持ちはあったものの、きら子は毎日、山根と登下校をするようになった。

 登下校を一緒にするメンバーにはもう一人、山根の小学校時代からの友達である澤田が加わった。澤田はテニス部に入っている為、朝練や部活などで時間がずれる事もあったが、大体いつも三人で登校した。

 山根は、細い体に制服のスカートを少し短くして、紺色のソックスを合わせて着こなしていた。澤田は、テニスで鍛えた日焼けした体にかなり短くしたスカートを穿き、白いソックスを履いていた。対するきら子は、成長期だから、と夢子が二サイズも上の制服を買ったせいで、どうにもアレンジが出来ずぶかぶかの制服をそのまま着ていた。その上、きら子は標準よりもぽっちゃりした体型だった。

 太っている女子はいじめの標的になりやすいものだ。しかし、この土地が地元で、その中でもわりと垢抜けている二人と一緒にいれば大丈夫だろう。きら子は胸を撫で下ろし、山根と澤田と毎日登下校するようになった。

 きら子の家は二人よりも学校に近かった。だから、下校時は、いつもきら子が一番先に別れる事になった。きら子の住むマンションは外壁が打ちっぱなしのコンクリートで出来た新築マンションだった。

「うち、ここだから」

 そう言って手を振るきら子に山根と澤田は口を開けて言った。

「こんな所に住んでるの?」
「ここ、地元じゃ高級マンションだって有名な所だよ。きら子ちゃんの家はすごいね」

 きら子は、その言葉に答えた。

「そんな事ないよ。中は狭いし」
「広さ、どのくらい?」
「キッチンと八畳のリビングと七畳の部屋と六畳の部屋があるだけ」
「それじゃ、お父さんとお母さんときら子ちゃんの三人じゃ狭いね」

 澤田が、何気なくそう言った。きら子はどう返答すべきかを迷った。誤魔化す事も出来る。嘘を吐く事も出来る。けれど、嘘を吐いたら、その後もずっと吐き続けなければならない。逡巡の末、きら子は、こう口に出した。

「うち、お母さんと二人なの」
「あ……。そうなんだ」

 どうしていいのかわからないというように澤田が言った。すると、山根が言った。

「うちもお母さんだけだよ」

 山根の言葉に、きら子はどう反応すればいいのか戸惑い、澤田を見た。澤田は山根の家の事情を知っていたようで、驚いた様子はなかった。きら子はどうしていいかわからないまま、相槌を返した。

「そうなんだ」

 空気が、ふっと変わった。山根が、きら子の方を見て笑った。きら子は、曖昧に笑みを返した。澤田は俯いたまま、かばんの取っ手をいじっていた。

「じゃね、明日も八時にね」

 山根は、明るく言って家へと帰っていった。
 家に戻ると、普段は帰宅が遅い夢子が珍しく家にいた。

「学校、どうだった?」

 きら子は、重いかばんを床に置いてこう答えた。

「うん、まぁ」

 何故か、言葉が出てこなかった。夢子が質問を重ねた。

「友達、出来た?」

 その言葉に、きら子は一瞬固まった。友達。きっと、山根と澤田は友達と呼べる存在なのだろう。けれど、何かが胸の中でわだかまって、その言葉を素直に口に出す事が出来なかった。

 夢子が、心配げにきら子を見た。きら子は、その視線に背中を押されるように言った。

「うん、出来た。明日も一緒に学校行く約束してるよ」

 そう言うと、夢子はほっとした様子で「なら、よかった」と言った。きら子は何故か気まずい気持ちで、制服を脱ぐ為に自室に戻った。

 部屋から出てリビングに行くと、夢子は服を着替えていた。

「ねぇ、このスカート短か過ぎる? 今日、社長が怒ってさー」

 ピンストライプのジャケットとセットになった膝上十五センチメートル程のスカートを穿いている。夢子はくるりとその場で回ってみせた。そして、きら子に向かってにっこりと笑う。

「短いとは思うけど、似合ってるんじゃない? でも、なんで社長が怒るの?」

 テーブルの上にあった新聞を引き寄せながら、きら子はそう返した。夢子は窓ガラスに自分の姿を映しながら言った。

「うーん。うちの社長、女だけど男には負けない、みたいな感じで一人で仕事してきた人だからかなぁ。すごい仕事が出来る人だし、尊敬はしてるんだけどね」

 そう言いながら、夢子は腰に手をあて、ポーズをつけ、自分の姿をチェックしている。

「でも、『あんた、そんな格好してうちの会社を売春宿にするつもり?』まで言う事はないと思うのよね」

 そう続けた夢子に、きら子は驚いて言い返した。

「何、それ。そんな事まで言われたの?」
「うん」
「怒りなよ」
「そういう訳にもいかないわよー。部下だし」

 そう言いながら、夢子は首をぐるりと回した。その間だけ、笑顔がふと消えた。

「今までと同じにはいかないからさ」

 夢子が、ふとそう呟いた。同じにはいかない。その言葉を胸の中で反芻しながら、きら子はリビングの隅に詰まれたまだほどいていない段ボール箱を見ていた。

 翌朝。山根は一人できら子の家の前にいた。澤田はどうしたのかと聞くと、今日は先に行った、と答えた。その日はテニス部の練習はない筈の曜日だった。澤田の不在を不思議に感じながら、きら子は山根の横に続いて歩いていった。

「昨日の澤ちゃん、ちょっとないよね」

 地元の子ども達がよく使う裏道を歩きながら、山根は言った。

「ないって?」

 きら子は、質問の意味がよくわからず聞き返した。

「あの気まずい顔って嫌じゃない?」

 山根が、そう言って続けた。

「澤ちゃんの家さ。お父さんが大学教授で趣味はテニスで、休みはいつもお父さんとテニスしてるんだって」

 ぶらぶらさせていたかばんをぼんと蹴りながら、山根は続けた。

「で、澤ちゃんはお父さんといい勝負がしたいからテニス部なんだってさ。誕生日はすごい高いラケット買ってもらったんだって。十万くらいするやつ」

 きら子は、山根の言葉に曖昧に頷いた。

「そういうのってないよね」

 山根が続けた言葉の意味が、きら子には理解出来なかった。ただ、山根の強張った横顔がきら子をじりじりと焦らせた。

「そういうのってないよね」

 無言のきら子に、山根は、もう一度続けた。

その日の休み時間、澤田はいつものようにきら子と山根がいる席に来た。

「山根ちゃん、昨日の課題出来た? 私、やばいかも」
「へぇ」

 いつもなら、山根は笑顔で澤田に言葉を返した。だが、今日の山根はその一言だけを言うと、すぐさま体ごときら子の方に向き直って言った。

「それより、次の授業、何だっけ?」

 取り残された澤田が、山根の背中越しにきら子を見詰めた。山根は澤田に背を向けたまま、きら子に笑顔で話しかけている。きら子はあたふたと二人を見やる。どうすべきかうろたえている内に、予鈴が鳴った。

「次、科学じゃん。きらちゃん、移動しよう」

 山根がそう言って、きら子を促し立ち上がった。去り際にも、山根は澤田に一言の挨拶もしなかった。

 数日後、山根はきら子の事を「親友だから」と言った。ちょうど、近くに澤田がいる時の事だった。澤田は、その言葉を聞いて下を向き、すぐさま自分の席へと戻った。その時、山根は澤田の後ろ姿を眺めながら、小さく鼻で笑った。それから、より一層笑顔を深めて、きら子に話しかけた。

 澤田はその頃、山根から離れ、同じテニス部に所属する生徒と行動するようになった。何があったのかわからないまま、きら子はあからさまにお互いを避けている二人を眺めていた。

 それから数日後、きら子は山根の家に遊びに行った。

 山根の家は、昔から続く商店街の並びにあった。その一角は長屋のように家がぎゅうぎゅうと立ち並んでいた。山根の家は、その中でもとりわけ古い家だった。

 崩れかけたブロック塀に、蝶つがいが一つ外れてぶらぶらした状態になっている門がついていた。山根が門を乱暴に押し、玄関へと向かった。玄関の右手には、雑草がぼうぼうに茂った庭があった。窓には、長年の埃のせいで黄色く見える網戸が、かしいだ状態でついていた。縁側の床が一か所、穴が開いたまま放置されていた。ぼろ家。きら子は、その言葉の意味を初めて実感した。

 台所から続く六畳程の広さの食事をする部屋へ、きら子は通された。へこんだ畳は歩く度にべこべこと嫌な音を立てた。山根の部屋は兄と姉が一緒で散らかっているので案内出来ないと言われた。

 きら子の父はビジネスコンサルタントをしていて、夢子は広告代理店に勤めていた。二人とも十分な収入があり、今まできら子はずっと多摩の新興住宅地にあるマンションに暮らしていた。きら子は一軒家に住んだ事も、築十年以上が経過している建物に住んだ事も、自分の部屋がない生活もした事がなかった。

 一度、プリントを取り違えてしまった山根がきら子の家までふいに尋ねてきた時があった。夢子は帰宅しておらず、きら子は山根を家にあげ、しばし話した。

 山根は、室内をきょろきょろと見回して言った。

「澤ちゃんの家は一軒家だし、他の小学校の友達も団地や古いマンションに住んでたから、こういう所、初めて入るよ」

 きら子は紅茶を用意しながら、山根に聞いた。

「こういう所って?」

 山根が、一瞬、きら子を見詰めた。それから、目をそらしてこう答えた。

「こういう、綺麗なマンションとか」

 きら子にとってみれば、今、自分が住んでいる家はごく普通のものだった。

「そうかな」

 そう言いながら、紅茶をカップに注いだ。

「この紅茶、すごくいい匂いだね」

 山根が鼻をひくつかせながら言う。

「うん、お母さんがお気に入りのマリアージュフレールって所のやつ」

 山根が紅茶を一口飲み、口を空けて目を見開いた。

「すごく美味しい。これ、いくらぐらいするの?」
「確か、一〇〇グラムで二〇〇〇円くらいとか言ってたかな」

 その日、そう言うと山根は唖然としたような顔をして、紅茶をまじまじと見詰め、それから部屋を見回し、きら子を見詰めた。きら子は山根の視線に戸惑いながらも、家にあったマカロンを出した。

「これは、何処のやつなの?」

 山根がマカロンを手に取り、そう聞いた。

「お母さんが取引先から貰ったみたい。確か最近オープンしたばかりのお店で」

 山根が、マカロンを皿に戻し言った。

「あ、ごめん。用事を思い出したから帰るね」

 そう言って、山根はその日、足早に帰って行った。
 
 振り向くと、山根の祖母がせんべいと最中を持っていた。

「ゆっくりしていって」

 もごもごと言って、山根ときら子の間にお盆を置いた。きら子は慌てて会釈をした。

「いいよね、きらちゃんは綺麗なマンションに住んで」

 山根が、ぽつりと言った。

「自分の部屋があっていいよね」

 山根が続けた。きら子はその言葉に頷けないまま、山根を見詰めた。山根が、最中に手を伸ばした。きら子は、お茶を一口飲んだ。家で飲むものよりもずっと味が薄かった。水道水の味が微かにした。

「あの高い紅茶じゃないけど」

 山根が、そう言った。

 それから、山根はきら子がお茶を飲む所をじっと見ていた。欠けた湯呑みの縁で唇を切らないように注意をしながら、きら子はお茶を飲み干した。
 
 数日後、終電で帰宅した夢子は、顔を隠すようにして家の中に入ってきた。先日買ったばかりのアイスグレーのスーツの上着はよれて皴だらけだ。
夢子は、普段、まず家に帰ってきたなりにビールを飲む。それから着替えて食事をし、風呂に入る。だが、今日の夢子は「ちょっと先にお風呂に入るわ」と言って、風呂場へ消えた。

 風呂から上がった夢子が、冷蔵庫を開けた音がした。きら子は、自室から出て、リビングへ入った。

 夢子はテーブルの前でラグに胡坐をかいて座り、ビールを飲んでいた。きら子は夢子の顔を見て、目を見張った。夢子の左目の横に、青あざが広がっていた。

「お母さん、それどうしたの」

 こめかみあたりから、目の上下に手のひらの半分程の大きさであざが広がっている。まるで、誰かに殴られたようなあざだ。

「これ? 転んだのよ」

 夢子はビールを口に運び、顔をしかめながら、言った。どうやら口の中も切れているようだ。顔を動かす度にあざが痛むのか、眉間に皴が寄っている。きら子は慌てて夢子に聞いた。

「なんで、そんな怪我をする程、転んだのよ」
「実はさー」

 夢子はそう言って今日の顛末を語り出した。

 夢子は、離婚を機に今まで勤めていた会社を辞め、新しい会社に就職した。今、夢子が勤めている会社は五十代の女性社長が率いる小さな広告代理店だった。社員は女性のみで化粧品のカタログや広報誌などを主に手がけている。夢子はそこで社長に目をかけられ、入社直後ながらもあちこちに連れていかれた。だが、その社長は酒を飲むと荒れる性質だった。

「ちょっとお使いで外に出るでしょ。で、少し時間が遅れると『男と会ってたのか』とか言うのよ」

 上着の胸元の切れ込みが深かったのは、取引先の男に気があるから。居酒屋の店員に「ご馳走様」と言ったのは、若い男が好きだから。タクシーの運転手に「ありがとうございました」と言ったのは、男なら誰でもいいから。事ある毎に社長はそう言うと夢子は語った。

「まぁ、昔から私はモテてたから、女の子から敵意は抱かれやすかったんだけど、さすがにそこまで、って感じなのよね」

 あざを氷とタオルで冷やしながらも、夢子はそんな風に話した。

 あざの原因も、社長の酒癖だった。その日、打ち合わせの帰りに社長と夢子は二人で飲んだ。打ち合わせ時の態度から始まり、日頃の服装にも話は及んで、酒が入っていたせいか、恫喝するような状態になった。すると、隣の席にいた男性が立ち上がってこう言った。

「他人の事だから口を出さないと思っていたけれど、余りにも酷過ぎる。いくら上司でも言っていい事と悪い事があるだろう」

 男がそう言うと、社長は激昂して立ち上がり、もみ合いになった。そこで間に立った夢子は転倒し、テーブルの端にこめかみをぶつけたのだ。

「それからも、『この男はお前の男なのか』とか言われちゃってさ。頭を打ったせいでしばらく動けなかったから、首根っこ掴まれて大変だった」

 さらりと夢子は話した。

 きら子は夢子の話に何も言えずにいた。働く事がこういうものなのか、きら子にはさっぱり理解出来なかった。ただ、何も出来ない自分が不甲斐なかった。

 きら子は無言で、夢子がこめかみに当てていたタオルを取った。冷凍庫から氷を取り出し、新しく冷たいタオルを作った。

 タオルを手渡すと、夢子が小さく「ありがと」と言った。何も答えられず、きら子は俯いた。

 自室に戻ったきら子は、おざなりにベッドの上に放っておいていた制服をきちんとハンガーにかけ直した。この制服も、それなりの金額がするものなのだ。そう思うと、粗末には出来なかった。

[2に続く]


2022年、そういやあの頃そうだったね、な話

はい! 『MIDNIGHT PARADE』に続いて、出版直前までいったけど出せなかった原稿無料公開です。

我ながら思う。わたし、ボツ原稿いくつあるんだよ……(遠い目)。

先月までは出版済みの『ろくでなし6TEEN』を無料公開していたのですが、出版済みのものはなぜかこの一章終わるごとのコラムが書けなかった。
多分、出版することで物質として一度完結していたから、間に何か挟む気になれなかったんですよね。

こちらは出版していないので、気ままに思い出話など書いていこうかな、と思います。

さて、この話はもちろんフィクションですが、母子家庭の中学生の不登校のetc……などは、わたしの人生そのままです。

自分の経験を題材にした小説いくつも書くなんて、どんだけ自分好きなんだよ! と自分でも思う。

まあ……ただ、題材が手近だったんですよ……。

あと、デビュー作『ろくでなし6TEEN』も2作目『腹黒い11人の女』も、出版できなかった『MIDNIGHT PARADE』も、もちろんフィクションなんだけど、自分の経験の中で覚えておきたいことがあったから書いているんですよね。

忘れたくなかったの、あの時のきらめきも憤りも切なさも、彼女や彼らの輝きも。

ちなみにこの『ママとガール』を読み返すのは10年ぶりなんですが、あったなー酒乱の社長に母殴られるとか。そして、わたしも社会に出てから似たようなことあったぞ? と、振り返りながらびっくり。

まあ、この回を読めばわかるように、「恵まれているちゃらちゃらした女」と見られやすいタイプなんですよね。この小説の、夢子もきら子も。ある種、それは本当で、その功罪というか善悪? 正誤? もこれからこの話で書かれていくと思います。

この小説のメインテーマは『いじめ』です。
だから、今日、8月30日から公開を始めました。

 2015年に内閣府が発表した「自殺対策白書」によれば、過去40年間の18歳以下の累計日別自殺者数は、9月1日(131人/年間1位)、9月2日(94人/年間4位)、8月31日(92人/年間5位)と夏休み明け前後に集中している。
また、40歳未満の者が自殺に追い込まれやすい時間帯は午前0時台にピークになることもわかっている。つまり、本日(8月30日)の深夜0時から72時間が年間を通して子ども自殺のピークだと言える。

9月1日前後の72時間が子ども自殺のピーク SOSの「受け取り方」に変化を
Yahoo!ニュース 2017/8/30(水)

強者の暴力と弱者の暴力がいかんともしがたく絡み合うのがいじめだと思う。作品はすべてがわたしの経験ではありませんが、いじめの描写はわたしの経験にかなり近いです。

でも、わたしは今、こうして元気に文章を書いているよ。

いじめ被害のただ中にいる人には辛い描写も多いかもしれない。そうしたら、もちろん無理をして読まなくてもいい。
ただ、先にネタバレするけど、ラストはハッピーエンド。
全12話だから、9月10日には更新が終わるから、よかったら全部読んでくれたらうれしいな。

そして、現在、いじめで悩んでいる皆さん。こういった相談窓口があることを忘れないで。第三者ができることって、いっぱいあるから。

全12話。わたしも中学生の頃の気持ちになって更新していこうと思っています。
読んでね。

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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。