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【小説】ママとガール[10]「ライダースとミニスカート」

10「ライダースとミニスカート」
 
 週末の早い時間の電車は空いていた。きら子は座席の一番端のポールに頭をもたせかけ、窓からの景色を眺めていた。冬の朝の日差しは何処か重たく、それでも家々の屋根をきらきらと輝かせていた。

 サッカー観戦は冷えると思ったので、きら子は厚着をしていた。大きなニットのマフラーをして、内張りのついた小さいサイズのライダースにタートルネックのセーターを着た。下はミニスカートにニットの厚手のタイツを合わせ、足元はエンジニアブーツを履き、更にレッグウォーマーも重ねていた。手元にはファーで出来た小さなトートバックの他にバスケットも持っていた。その中には弁当が入っている。昨日から下ごしらえをして作ってきたものだった。

 バス乗り場には既に翔太がいた。翔太は、あちこちに立ち並ぶバス停に戸惑うきら子に「こっちこっち」と大きく手を振った。翔ちゃんは、いつもこうやって手を振ってくれた。翔太のいつもの仕草に、ふと感慨を覚えた。

 バスは空いていて、きら子と翔太は後部座席に座った。「これ、お弁当」と言ってきら子がバスケットを渡すと「すげぇ、嬉しい」と言いながら、早速翔太は蓋を開けようとした。「昼用だってば」と言いながら、きら子は翔太の手を軽くはたいた。

 それから、翔太は今日見に行く試合の話をした。Jリーグのチームの下部組織に所属する十代の選手がメインの試合で、高校在学中の若い選手も出てくるそうだ。「俺もその内、入るからね」。翔太はにこにことそう言った。きら子は、その言葉に何も答えずにいた。

 バスを降りて見えたスタジアムは、圧巻される程に巨大だった。都内のスタジアムのように周りに商業施設がない分、余計に大きく見えた。きら子は、海風に吹き飛ばされそうなマフラーを押さえながら「大きいね」と言った。

「そうそう、最近出来たらしいよ。俺も初めて来る」

 翔太は楽しげに鼻歌を歌いながら、観客席に続くドアを開けた。鮮やかな緑のピッチが目の前に広がった。観客席にはメガホンを持っていたり、ユニフォームを着ている人もいた。翔太は慣れた様子で席の間を進み、最前列に席を取った。

 翔太は無言でピッチを見詰めていた。話しかける事を躊躇う程、真剣な横顔だった。

 試合が始まった。サッカーをほとんど見た事のないきら子は、ポジション名など全くわからない。それでも、どちらがボールを長く持っているか、どちらが押しているかは見ていてわかった。

 青いユニフォームのチームに一人、目を見張るような動きをしている選手がいた。体はそれ程大きくはないが、鋭く的確なパスを回している。翔太の視線はその選手を追っていた。

「あいつ、すっげぇな」

 ハーフタイム中、翔太はぽつりと呟いた。

「あの、青いユニフォームの方の?」

 きら子がそう聞き返すと、翔太は硬い表情で頷く。

「あいつ、いくつなんだろう」

 そう言って、翔太はピッチをじっと見詰めていた。

 試合は青いユニフォームのチームの圧勝で終わった。終わったのは午後一時で、二人は外に出て弁当を食べる場所を探した。海沿いの方向に行くバスがあった。二人はバスに乗り込み、海へと出た。

 冬の海に人はまばらだった。寒さを恐れぬサーファーがウェットスーツを着て波と戯れているだけだ。コンクリートの石段を下ると、白砂の浜が広がっていた。海は、水色に灰色を混ぜたような色だった。翔太が走っていき、工事用の青いビニールシートを拾ってきた。二人はビニールシートに腰を下ろし、弁当を食べた。

「ああいうの見ると、少し焦る。俺、ブランクあるしさ」

 翔太が、三個目のおにぎりを頬張りながら言った。

「何度も悩んだんだ。日本でサッカーの強い高校に行った方がいいかもしれないって。でも、やっぱり」
「あっちの方が好き?」

 きら子がそう問い返すと、翔太は気まずそうに、けれど、断固として「うん」と頷いた。

「サッカー、好きなんだね、今日、見てて思った。今までで一番、真剣な顔してた」
「そうかな」

 不思議そうな顔をして、翔太は自分の顔をすっと撫でた。そうだよ、ときら子は言って串に刺したアスパラのベーコン巻を食べた。満ちては引く潮の音だけが二人の間に響く。日差しを返して海がきらめいた。沖に見えるサーファーが波へと向かっていった。きら子はそっと口を開いた。

「行ってきなよ」

 翔太がきら子の方を向いた。

「いいの?」

 きら子は息を吸って、言った。

「行かなきゃ。お母さんが翔ちゃんは世界的な選手になるかもって言ってた」
「お母さん、サッカー詳しいの?」
「全然」

 きら子が答えると、翔太は「はは」と笑った。「全くいい加減なのよ」ときら子は翔太に言う。そして、一息にこう続けた。

「待ってるからさ」

 きら子の肩に翔太は頭を乗せ、「うん」と呟いた。
 
 それからの一ヵ月間、きら子と翔太は、東京のあちこちを巡った。

 水上バスに乗って、お台場に行った。東京都現代美術館に行って、深川飯を食べた。月島に行って、もんじゃ焼きを食べた。浅草に行って、花やしきの前時代的なジェットコースターに二人で乗った。江ノ島に行って、江ノ島エスカーに乗った。きら子の家の近所の公園でフリスビーをした。佳男の店に二人で顔を出し、餞別だと言われて翔太は佳男の着ていた服を大量に貰っていた。

 そうしている内に、あっと言う間に翔太の旅立つ日は近づいていた。

その日、きら子は初詣に翔太と行った神社に一人で来ていた。旅立つ翔太にお守りを買いたかった。

 平日の昼間の神社には誰もいなかった。玉砂利を踏んで、お手水を済ませ、参拝をする。それから売店に向かい、お守りを選んだ。交通安全か心願成就かで悩み、まずは旅の無事を祈ろうと交通安全に決めた。すると、お守りの横に絵馬があった。もう一つのお願いは絵馬に書こう。そう決めて、きら子は絵馬も購入した。

 初詣の時、翔太が使った記帳台で、きら子は絵馬を記入した。『翔ちゃんの夢が叶いますように』。大きく書いて、日付と自分の名前を入れる。それから絵馬を吊り下げに行った。

 吊り下げられている絵馬の中には随分古いものも多くあった。中には去年のものもある。もしかしたら、翔太の絵馬も残っているかもしれない。きら子は絵馬をかき分けて、翔太のものを探した。人の書いた願いを盗み見るのは良くない。そう思った。けれど、あの時に翔太が必死で祈っていた事を、きら子はどうしても知りたかった。

 右から三列目の上から三番目に翔太の絵馬は残っていた。はみ出すように力強い右上がりの文字で、絵馬にはこう記されていた。

『いつまでも、きらちゃんと俺が一緒にいられますように』

 きら子はそっと瞳を閉じた。

 いつまでも。一緒に。

 その言葉を胸の中で繰り返す。

 一緒にいたかった。けれど、どうすれば一緒にいられるのかわからなかった。それでも、翔太が未来に当たり前のようにきら子を組み入れている事がただ嬉しく、きら子は絵馬をそっと撫でた。そして、自分の絵馬をその上にかけた。
 
 三月の終わり。きら子はその日、翔太の家の最寄り駅まで迎えに行った。翔太は、一人で駅に来た。家族には湿っぽくなるから空港には来ないでほしいと告げたそうだ。空港には夢子が来る予定だった。そう言うと翔太は「おー、最後、夢子さんに会えるのは嬉しいな」と笑った。

 翔太の荷物は、背中にあるリュックサックだけだった。「荷物少ないね」と言うと「大体送ったから」と翔太は答えた。駅までの道を無言で歩いた。切符を買い、電車に乗った。成田空港に向かう電車に乗るとスーツケースを持つ人々がぱらぱらと散っていた。東京ディズニーランドの袋を持ち、外国語で話をしている人々がいた。駅のホームで「お土産買ってくるね」と明るく話すカップルがいる。旅立ちを前に、誰もが華やいだ顔をしていた。

 翔太は機嫌よく鼻歌を歌いながら、「そう言えばディズニーランド行ってなかったな。今度、一緒に行こうよ」ときら子に言った。その今度は、いつになるのだろう。そう思いながら、きら子は小さく「うん」と頷いた。

 空港につき、チェックインカウンターへ行く。翔太はリュックサックを預けて身軽になり、土産物店をぶらぶらしていた。指定したゲートの前のベンチに夢子はいて、きら子はその隣に腰かけた。

「もうすぐね」

 頭上の電光掲示板を見て、夢子がそう言った。

「もうすぐだよ」

 きら子は小声で答えた。

「やっぱり向こうでお世話になる家族に東京ばな奈とか買ってくべき?」

 翔太が、土産物屋からそう言いながら出てくる。

「どっちかっていうとだしパックとかの方が嬉しいんじゃない? 向こうじゃあ日本の食材は高いでしょう」
「そういうのは航空便で送ってあるんですよ」

 翔太と夢子はそんな風にごく普通の会話を交わしていた。翔太が、きら子の横に座った。

「でも、東京ばな奈って美味しいのかな、俺、食べた事ないんだけど。きらちゃん食べた事ある?」

 くるりとこちらを向き、笑顔のまま、翔太がそう言った。真っ直ぐな眉を、そこだけ光を放つような輪郭の濃い瞳を、横に広い口をきら子は見た。笑った時にその全てが折り畳まれるようにくしゃりと皺が寄る所を見た。それらを見る事が出来るのは、これで最後だ。

 きら子は思わず、翔太の服の袖を掴んだ。

「翔ちゃん、嫌だ」

 その一言で翔太の表情が固まった。

「遠くに行っちゃ嫌だよ」

 翔太の眉が困ったように下がっていった。夢子が、じっとこちらを見ていた。きら子は翔太の服の袖を握りしめたまま、翔太の顔を見上げていた。唇を噛み締めて、涙を堪えた。行きなよ、と言った筈なのに、今になって酷いと自分でも思った。けれど、それでも行かないで欲しいという気持ちは止められなかった。

 翔太が、服の袖からきら子の手を外した。きら子は外された自分の手を呆然と見つめた。翔太と自分の間にある何かがぷつりと切れたような気がした。

 その時、肩に温かい感触がした。夢子の手だった。

「きらちゃん」

 夢子が労わるように呟いた。けれど、その瞬間、翔太が言った。

「夢子さんは黙っていて貰えませんか」

 夢子が、きら子の肩からぱっと手を離した。

 下を向いたきら子の視界は既に遠く歪んでいた。本当はこんな風に泣きたくはなかった。けれど、涙はどんどんと湧いて出てきて、瞳から溢れ出させないようにするだけで精一杯だった。

 膝の上に置いた両手が翔太の両手で包みこまれた。翔太は、そっとこう言った。

「泣かないでよ。遠くなんかないんだよ。悲しい事なんか全然ないんだよ、きらちゃん。俺達は何処でも行けるんだ。本当だよ」
「何言ってるんだか全然わかんないよ」

 きら子は首を横に振り、言った。きら子には、翔太の言う事が残酷にすら聞こえた。

「翔ちゃんは自分で決めて自分で行くからそう思えるんだよ。私はそうは思えないよ」

 きら子は俯いたまま、絞り出すようにそう言った。

「違うよ」

 断定するように、翔太が言った。そして、続けた。

「俺、約束するから。きらちゃんが俺に会いたい時は世界中の何処にいたって飛んでくから」
「じゃあ、最初から行かなきゃいいじゃん」

 翔太は、きら子の言葉に困ったような顔をして言った。

「そうだけど……」
「ていうか、飛んでいくってどうやって? 翔ちゃん、自家用ジェットでも持ってるの? 無理じゃん。気休め言わないでよ」

 単なる難癖だと自分でも思った。それでも、きら子は攻撃的な言葉を吐く事を止められなかった。

「じゃあ、飛んで行けなくても、電話するよ。メールもする。手紙も書くし、何か送るよ。きらちゃん、甘いもの好きだろ。あの、バレンタインにくれたピエール何とかって所のお菓子。あれ送る」
「あれはフランスのだよ……。ブラジルにないと思う」

 あと少ししかない時間で、結局そんないつものどうでもいい会話をしている自分が歯痒かった。飛行機が飛び立つ時刻は刻々と迫っている。

 どうして、皆、いきなりいなくなるの。

 きら子は、翔太の手を振りほどき、叫んだ。

「私は何もいらないよ。翔ちゃんがいてくれたらそれでいいよ。翔ちゃんが近くにいなきゃ嫌だ。翔ちゃんがいなきゃ、世界は真っ暗だよ。私、何も出来ないよ」
「俺、そういうの嫌い」

 そう言った翔太の声音は今までになく厳しいものだった。翔太が、はっきりと言った。

「なんで俺の事がそんな風に『いなきゃ』になっちゃうんだよ。俺がいなきゃ駄目なんて、それじゃ1+1がマイナス1になっちゃうようなもんじゃん。なんで、俺がきらちゃんのマイナスになる訳?」

 翔太の強い口調に、きら子は何も言葉を返せず、ただ呆けていた。翔太がまた口を開いた。

「大体、俺はいるもん。近くとか遠くとかじゃなくて、俺はいるんだよ。俺がいてきらちゃんがいて、それで、こうして会えたんじゃん。それでもきらちゃんは世界が真っ暗っていうの? 違うよ、絶対。すげぇ薔薇色だよ」

 そう一息に言うと、翔太は息を大きく吐いた。眉根を寄せ、瞳は一直線にきら子を見据えていた。

 翔太の表情に滲む焦りと必死さに、きら子は目を見開いた。いつも笑っている翔太がこんな風に一心不乱になったのは、きら子ときら子の父親を会わせようと必死になっていた時以来だった。けれど、それでもきら子の頭の中は翔太が離れていく事で埋め尽くされていた。

「やだよ、翔ちゃん……。遠くは嫌だよ」

 きら子は、涙目で翔太を見上げた。すると、翔太は、ワックスで逆立てた髪をばりばりと搔きむしっていた。瞳に激昂の色が浮かんでいる。

 翔太が、悲鳴のように叫んだ。

「だから、遠くじゃねぇって言ってるじゃん!」

 きら子は、その声にばっと顔を上げた。

「遠いよ!」
「同じ地球じゃん!」
「それにしたって遠いよ!」

 そう叫びあっている内に、きら子と翔太の顔の距離は近づいていた。あたりにいる誰もが驚いて自分達を眺めているのがわかった。けれど、二人は怒鳴り合いを止める事が出来なかった。

「で、あんた達は何の話をしている訳?」

 夢子が、会話の間にするりと入り込むように言った。

「お母さん……」

 きら子は、涙の間からそう呟いた。

「ブラジルと日本は遠いか近いかって話です」

 翔太が、夢子に向き直りそう答えた。

「まぁ、近くはないわよねぇ」

 夢子が、呑気な調子で唇に指を当てそう言った。

「いや、近いです。愛は時空を超えるんで」

 翔太が、堂々とそう答えた。

「馬鹿じゃないの……。そんなの言葉だけじゃん。綺麗言だよ」

 きら子は涙を拭いながらそう言った。

「言葉だけじゃねぇよ。綺麗言の、綺麗な事の何処が悪いんだよ」

 翔太が、きら子を睨んでこう言った。

「言葉だけじゃなくするよ。綺麗な事を本当にするんだよ。自家用ジェット持ってない癖にってさっききらちゃん言ったよな? だったら、俺、自家用ジェット持てるぐらいになるよ。俺は、きらちゃんとずっと一緒にいたいんだよ。だから、俺は行くんだよ」
「全然、意味わかんない。話が繋がってないよ。遠く離れたら、」

 そう言ったきら子を遮って、翔太は言った。

「きらちゃんと俺はずっと一緒にいるんだよ。俺はすげぇ格好いい男になって、きらちゃんはもっときらきらして、それで一緒に手を繋いで、何処までも行くんだ。二人でいろんな所に行っていろんなもの見ただろ? もっと、一緒にそうするんだ。何処にいたってそう出来るように、俺はなりたいんだよ」

 きら子は、その翔太の言葉にも何も答えられなかった。ただ首を横に振り、ひたすらに泣いていた。

 搭乗アナウンスが空港に響く。翔太が焦るように頭上の電光掲示板を眺める。

「こんなんじゃ」

 噛み締めた唇の隙間から、小さく翔太が呟いた。

「わかった、きらちゃん」

 夢子が、両手をぱちんと叩いて言った。きら子はその言葉に顔を上げた。夢子は瞳をきらきらとさせ、何やら楽しげな表情をしている。何故こんな時にそんな顔が出来るのだろう。きら子は、夢子の顔を唖然として見詰めた。

「えーとね。つまり。翔ちゃんはきらちゃんが大好きなの。きらちゃんも翔ちゃんが大好きなの。だから、二人は運命の出会いなの」
「だから、何?」

 きら子の冷たい言葉にもめげずに夢子は続けた。

「運命だから大丈夫よ。離れるって、場所じゃないのよ。まぁ、お父さんと私みたいな、そういうのが離れるっていうの」

 あっさりと言われ、きら子は呆気にとられた。きら子は、恨みがましい気分で夢子を見上げた。しかし、夢子は何も気にしていないような調子で続けた。

「でも、翔ちゃんときらちゃんは全然離れてないよ。翔ちゃんときらちゃんがお互いに応えたいと思う限り、離れないのよ」
「そう! そうなんです、夢子さん、さすが!」

 翔太が叫んだ。いつもの、大輪の花がぱあと開くようなあけっぴろげな笑顔だった。

 きら子はその笑顔を見ながら翔太と出会った時の事を思い出していた。

 さんざん突っぱねて、嫌がり、逃げて、それでも翔太はずっとこの笑顔できら子の元にいた。大丈夫だよ。そう言いながらきら子の手を引いて、いつもこことは違う場所に導いてくれた。

 離れるって、場所じゃない。

 きら子は夢子が言った言葉を、胸の中で繰り返した。

「きらちゃん、俺、きらちゃんにはわかって欲しい」

 唇を噛み、何よりも悔しそうな顔で翔太は言った。きら子は顔を上げて言った。

「わかった」
「え」
「わかったよ。ごめん。信じる。翔ちゃん、信じてくれてるんだよね。だから、私も」
「きらちゃん」

 翔太が体の奥底からそっと押し出すように、きら子の名前を呼んだ。翔太に呼ばれた自分の名前は、世界一のもののように聞こえた。きら子は、翔太が呼ぶその声を耳に焼き付けた。胸の底の一番奥の奥、何よりも一番の宝物を入れる場所に大切に置くように。

 そして、きら子は顔を上げた。

「信じるから」

 鼻声で、けれど、涙を拭い、きっぱりときら子は言った。

「信じるじゃないよ。それは事実で真実なんだ。引力の法則レベルで俺達の決まりなんだ」

 翔太が、きら子の手を握り、言った。
 搭乗アナウンスが、急かすように翔太の乗る便名を告げた。翔太が靴をきゅっと鳴らして立ち上がった。きら子は、顔を上げた。

「そんな顔しないで」

 翔太はきら子の頬に触れて言った。きら子はその言葉で両頬を思い切り膨らませた。

「その顔もやめてよ。せっかく可愛いんだから」

 きら子はその言葉に大きく瞬きをした。

「本当、すぐ翔ちゃんはそういう事を言う」

 しどろもどろにならないように気を付けて答えた。翔太がふわりと笑った。そして、翔太は歩き出した。
 ゲートの間近まで、きら子は翔太の横を歩いた。夢子は二人の後ろに少し離れていた。右に感じる翔太の体温が、身を切られるかのように痛かった。そして、ゲートの手前で足を止めた。
 きら子は、そっと翔太を見上げた。翔太の腕がきら子の体を包んだ。抱き締め、そしてすぐに離れた。
 そして、翔太はゲートをくぐった。チケットを職員に手渡し、振り向いて大きく手を振った。きら子は、小さく手を振り返した。

 そして、翔太が大きく叫んだ。

「きらちゃん、遠くじゃない」

 きら子はその言葉に頷いた。

「遠くだなんて思わないで。遠くだと思ったら遠くになっちゃう。遠くじゃないんだ」

 翔太が続けてそう叫んだ。周囲の人間が遠巻きに翔太を避けている。きら子はその言葉にも頷いた。

 翔太が両手を頭の上にあげた。右の手と左の手を頭上でがっちりと組む。そして、翔太がもう一度叫んだ。

「俺達はいつも手を繋いでる。本当だよ。上手く言えないけど、いつだってそうなんだ」

 うん、うん、と頷きながら、きら子も同じように頭上で両手を組んだ。翔太が大きく、うんと頷いた。そして、それから手をほどき、大きく振った。手を振り返しながら、きら子は、遠くじゃない、と小さく呟いた。

 翔太を見送り、トイレに行きたいと夢子に言った。夢子はチェックインカウンターの前で待っていると言った。赤くなった目を洗面所で洗ってから夢子の元へ戻った。ベンチに座る夢子は缶コーヒーを飲みながら、文庫本に目を落としていた。声をかけると顔を上げ、言った。

「ちゃんと『いってらっしゃい』出来たね」
「うん」
「なら、よかった」

 そう言うと、「展望デッキに行こうよ」と言いながら、夢子は歩き出した。

「実は今日、私が来たのは翔ちゃんに頼まれたからなのよ。翔ちゃんが『見送りに来た後に一人で帰るのは寂しいから』って言って。私は二人の邪魔をする気はなかったんだけどね」
「翔ちゃん、過保護だね」
「本当よ、私よりずっと過保護だわ」

 二人はそう言い合い、小さく笑った。夢子が遠くを見ながら、続けた。

「翔ちゃんはいい子ね」
「うん」
「本当にいい子だわ」
「うん」

 胸の中から湧き出る何かを託すようにきら子は頷いた。少し先を歩いていた夢子がふと振り返る。そして、きら子に手を伸ばした。

「ねぇ、きらちゃん。手を繋いでいい?」
「え?」

 きら子が聞き返すと、夢子は少し照れたように笑った。

「片方は翔ちゃんとかもしれないけど、これからもっと手を繋げる人はたくさん出てくるかもしれないけど」

 そう言って、一度、言葉を切り、夢子はそっと言った。

「私とも手を繋いでいて欲しいから」

 もちろんだよ。

 そう思いながら、きら子は夢子の手に自分の手を重ねた。

[11に続く]


「言葉だけじゃなくするよ。綺麗な事を本当にするんだよ。」

って、こんな男、現実にいねーよ、といじわるな人は言うかもしれないけれど、いる。いるんですよ。

と声を大にして言いたいような翔太いい男っぷり炸裂回です。

でもさー本当そうだよね。

「自家用ジェット持ってない癖にってさっききらちゃん言ったよな? だったら、俺、自家用ジェット持てるぐらいになるよ。俺は、きらちゃんとずっと一緒にいたいんだよ。だから、俺は行くんだよ」

自家用ジェットって今、中古だったら数百万ぐらいで買えるんですよ。維持費と管理費が高額らしいんですが、実はプライベートジェットのシェアサービスも今あって。カーシェアならぬジェットシェアですね。

てことで、別に全然、夢じゃないんですよ。

ていうか、逆に言ったら、実は思い描くことって全部、夢じゃないですか?

わたしもずいぶん、「小説を書く」なんて絵空事って言われたけど、なれたし、美しい海辺の場所で暮らしているし。

『綺麗な事を本当にするんだよ』

こう言った時点で、それは夢でも絵空事でもないじゃない?

だって、現実で口に出してるんだもん。

そして、口に出すことは、決意、というよりも、約束だとわたしは思うわ。

その約束は誰とのもの? と問い掛けるといろんな答えがあると思うんだけど、自分と、だけじゃちょっとつまらないから、わたしだったらこう言うな。

自分と、自分の大切なひとと、その人と一緒にいる世界との約束だ、と。

今、「一緒にいる世界」を「共にいる世界」と書くかどうか悩んだんだけど、「一緒」っていい言葉だな、と思ったから「一緒」にしました。

「緒」って、ひとつなんだけどもろもろ、って感じの意味かしら、と検索してみたら、

「緒」意味

①いとぐち。物事の起こりはじめ。「緒戦」「由緒」 ②すじ。つづき。つながり。「一緒」 ③こころ。「情緒」 ④ひも。お。「鼻緒」
goo百科事典「緒」

と出てきまして。

「緒」という漢字は、より糸の象形である「糸」と、台上に燃料を集めて火を焚く象形の「者」で成り立っています。

「者」は「集める」という意味合いを持つことから、糸を集めて結び止めた部分を「糸の先端」として表したのが始まりです。

「糸の先端」は糸が伸びる始まりの部分であることから、「きっかけ、はじまり」という意味が生まれ、さらにそこから、「心境の変化や考えの始まり→心、気持ち」という意味が派生しました。

また糸や紐という意味から、「長く続くもの」をさすようになり、「命、生命」という意味でも使われています。
「緒」とは?意味や使い方をご紹介!名前での意味は?(コトバの意味辞典 )

ちなみに、「共」という言葉は、

とも【共】
〘語素〙
① 一対のものが、同類である、または同じ状態である意を表わす。「とも裏」「とも働き」「とも白髪」など。
② 複数のものを表わす名詞に付いて、それが全部いっしょの状態であることを示す。「二人とも」「男女とも」など。
③ 従となるものを表わす名詞に付いて、それが、主となるものに込められていることを示す。こみ。「送料とも」「税金とも」など。
「共」コトバンク

これ、今調べてめっちゃ面白かった。

「緒」はそこにある状態であり、「共」は関係性の言葉なんだなーと。

「一緒」は集まっている状態、そのはじまり、きっかけ、糸口、変化も含んだ長く続くもの。空間、みたいなものに近い気がする。

対して「共」は例えば、「Aさん」「Bさん」という、別の個体がいないと成り立たない関係性を指すものだな、と。

ちなみに「共」という感じの成り立ちを調べたら、「大きなものを両手で捧げる」というところからはじまっているそうな。

そして、「緒」という漢字は、

「より糸」の象形と「台上にしばを集め積んで火をたく」象形(「煮る」の意味)から、繭(まゆ)を煮て糸を引き出す事を意味し、そこから、「いとぐち(糸の先端)」を意味する「緒」という漢字が成り立ちました。
「緒」漢字/漢和/語源辞典

これを読んで、自分がなんで「共」より「緒」の方がしっくり来たのかが超わかる説明でした。

「共」は人間にフォーカスしていて、「緒」は状態にフォーカスしている言葉だからなのね、と。

このへんはまた別で掘り下げてみたいな、と思ったりします。

全12回、引き続きよろしくお願い致します。

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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。