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【小説】ママとガール[6]「ストローハットと白いワンピース」

6「ストローハットと白いワンピース」
 
 次の週末。きら子が出店しているフリーマーケットに翔太は午前十一時頃からやって来た。きら子の隣に座り、ジュースを飲みつつ、店の手伝いをしつつ、あちこちの店を回っている。翔太が「俺、ちょっとスニーカー見てくるわ」と言って出掛けてすぐ、服を畳んでいたきら子の頭上から声がかかった。

「きらちゃん、来たわよ」

 夢子の声だった。

「久しぶりだわ、フリマに来るの。きらちゃん、一人で平気って言っていたけどたまには顔出そうかなって。今日の売れ行きはどう?」
「あ、まぁまぁ」

 きら子は思わず手元にあった売り物の服を握り締めた。このままでは翔太と夢子がかち合ってしまう。だが、夢子はきら子の様子に気付かず、シートに上がり込んできた。

「何かむしむしするわねぇ。歩いてきたら汗かいちゃった。ちょっと休ませて」

 先程まで翔太がいた場所に夢子が座り込んだ。何とか夢子に帰って貰うか、翔太に連絡してみるか。思案している内に、翔太が手にTシャツを持って右手の通路から近付いてきた。

「きらちゃん、これ格好よくない? 店の人、すごいいい人で千五百円を八百円にしてくれた」

 翔太がTシャツを振り回しながらそう言った。それから、夢子に気付いて怪訝な顔をする。こうなったら、もう紹介するしかない。きら子は、小さくため息を吐いてから立ち上がった。

「お母さん、彼、森翔太くん」

 夢子の方を向いて言う。

「翔ちゃん、この人、私のお母さん。夢子」

 翔太の方を向いて言う。すると、すぐさま、夢子が立ち上がった。

「えー、やだー。きらちゃん。びっくり。何? 最近出かけるの多かったのは彼と会っていたからなの? 携帯欲しがったのも? やだー、教えてよ!」

 いつもより数倍甲高い声だった。きら子はその声を聞きながら、頭を抱えたくなった。横目でちらりと翔太の様子を見た。すると、翔太は直立不動の姿勢で大きく声を上げた。

「はい、夢子さん! きら子さんとお付き合いさせて頂いています森翔太です。よろしくお願い致します」

 翔太はそう言って体を深く折り曲げ、一礼した。翔太の様子にきら子は目をしばたたかせた。同時に「お付き合いさせて頂いて」という一言にもきら子は驚いていた。薄々は思っていたが、やはり、そうなんだ。きら子はその言葉に胸が躍るような感覚と同時に歯がゆいような不安を感じて、一瞬戸惑った。

 翔太はきら子の様子に気付かぬまま、夢子に話しかけている。

「夢子さん、喉、乾いてないですか? 俺、ジュース買ってきます」
「あら、じゃあ、お願いしちゃおうかな。私はウーロン茶がいい。きらちゃんは?」
「あ、じゃあ、私はお茶で」
「了解しました!」
「あ、はい、これ。自分の分も買ってきてね」

 そう言って夢子が千円札を手渡した。

「お気遣いありがとうございます! 恐縮です!」

 そう言って、翔太はまた走って行った。

 それから翔太が戻ってくるまでの間、きら子は夢子から質問攻めにあった。何処で出会ったのか、出会ったのはいつなのか、翔太はいくつでどういう子なのか。きら子はその質問に、つい最近、このフリーマーケットの会場で、翔太はひとつ年上の帰国子女だ、と答えた。すると、夢子は出会いがここなんていいじゃない、と浮かれた調子で言い、まだ付き合いたてなのね、とわくわくした様子で言い、帰国子女なんて格好いい、ときゃあきゃあと言った。完全に、はしゃいでいる。きら子は、また小さくため息を吐いた。

「きらちゃんから聞いたわ。帰国子女なんてすごいわね」
「いえ、単に親の都合ですから。夢子さんこそお若くてびっくりです」
「そうそう、二十歳の時にこの子を産んだから。でも、翔太くんって口がうまいわね」

 戻ってきた翔太と夢子はすぐにそんな風に盛り上がりだしていた。夢子が思いついたように言った。

「ねぇ、よかったら今日、うちで夕飯を食べない? ね、きらちゃん」

 いきなり話を振られて驚きながら、きら子は答えた。

「え? あぁ、翔ちゃんが良ければ」

 そう言って翔太の様子を窺う。翔太が、満面の笑みで言った。

「あ、俺、今日暇です。ご迷惑じゃなければ是非」
「じゃあ決定! 私は先に帰って夕飯の準備をしておくわ」

 夢子はそう言い残し、うきうきと家に帰って行った。

「はー、びっくりした。きらちゃんのお母さん、若いねー」

 翔太は、先程までやはり緊張していたようだった。ほっと息をつき、きら子の横に腰を下ろした。きら子は口を結び、翔太の言葉を無視した。ビニールシートの上に積もった土埃を乱暴に払った。

 何だか無性に苛々していた。
 携帯がポーチの中で小さく震えた。見てみると夢子からのメールだった。

『彼氏、いい子じゃなーい。嫌いなものないか聞いておいて』

 いかにも浮かれた絵文字付きのメールだ。

「お母さんから、嫌いなものはないかって」
「あー、俺、納豆ともずくが駄目。でも、そんなお気遣いなく、って言っておいて」

 翔太の苦手な食べ物なんて初めて聞いた。それをこのタイミングで聞くのが、何故か嫌だった。きら子は翔太に返事をせずに、夢子にメールを返した。

 家のドアを開けた瞬間、台所からは醤油と砂糖の匂いがした。きら子は大きな荷物を部屋に押し込み、翔太と共にリビングに行った。

 用意されていたのはすき焼きだった。既に鍋に野菜と肉が山盛りになっており、横にはざるに乗せられた具材がこれまたてんこ盛りだ。横にはどんぶりに生卵が十個近く置いてある。あまりの食材の量にきら子は唖然とした。
 夢子は具材が煮えたと同時に翔太の皿に肉を盛りつけた。「遠慮せずに食べて」と翔太を急かす。翔太もどんどん皿を空にしていった。

「美味しいです。すき焼きなんて久しぶりです」

 翔太がそう言うと、浮かれた調子で夢子が答えた。

「うちも久しぶりよ。ほら、私も普段遅いし、きらちゃんと二人じゃ味気ないし。それにきらちゃんがダイエットしてたから」
「え、きらちゃん、それ以上痩せなくていいでしょ」
「違うのよ、昔はこの子、ころころしてて。それも可愛かったんだけど、中学に入ってからがくっと痩せてね」
「へぇー。そういうきらちゃんも見たかったかも」
「あ、写真見る? きらちゃんの赤ちゃんの頃とか」
「やめてよ、そういうの」

 盛り上がっている二人に、きら子はそう口を挟んだ。その声は予想外に冷たくあたりに響いて、場が一瞬静まり返った。すき焼きの鍋がぐつぐつという音だけが部屋に響く。きら子は場を取り繕おうと、おたまを手に取った。

「ほら、お母さんも食べて。お肉、煮えちゃうから」

 夢子が戸惑いながら皿を差し出す。きら子はその中に肉を入れた後、翔太の皿にも肉をよそった。翔太が訝しげにこちらを見ていた。きら子は翔太から視線をそらした。自分の皿にも肉をよそう。何が嫌なんだろう、何故こんなにむしゃくしゃするんだろう。苛立ちながら、きら子は、ひたすらになかなか噛み切れない肉を噛み砕いた。

「また来てねー」

 ビールを飲んでほろ酔いの夢子は、マンションのエントランスまで降りて翔太ときら子に手を振った。きら子は翔太を駅まで送っていくつもりだった。翔太は何度も暗いからいいよと言ったけれど、きら子は送ると言い張った。

 時刻は午後九時。夜は既に深かった。街灯が二人の影を長く照らしていた。

「今日はいきなりお邪魔してごめんね。でも、夢子さんと会えて嬉しかった」

 翔太が、きら子のペースに合わせて歩きながら言った。きら子はその言葉にさっきまでの胸のもやもやが再燃してくるのを感じた。きら子は、ぼそりと呟いた。

「別にいいけど、なんで嬉しいの」
「え?」
「なんで、お母さんと会えて嬉しいの」
「え、そんなのきらちゃんのお母さんだからに決まってるじゃん」

 翔太は両手を広げ、あっさりとそう答えた。その何も気にしていないような口調にきら子は呆気にとられた。思わず、翔太を見上げた。

 翔太の顔の半分は闇に沈み、もう半分は街灯に照らされて輝いていた。こんな真夜中に会うのは初めてだ。そう思った瞬間に、夜風が吹いた。翔太のTシャツがたなびき、きら子の腕に当たった。Tシャツは心なしか少し湿り、翔太の体温で熱かった。

 急に右横にある翔太の体が、大きく力を増して熱くなったように感じられた。当たりそうで当たらない肩がもどかしいけれど、何故か怖かった。きら子は思わず自分の肩をそっと撫でた。

 翔太は、顎に手をやり、何やら思案するような表情をしていた。きら子はそっと翔太の顔を見上げた。すると、翔太の足が急に止まった。

「わかった。もしかして、きらちゃん、嫉妬してる?」

 きら子は目を見開いて翔太を見詰めた。言われている事の意味がわからなかった。

「誰に?」
「俺が、夢子さんと話してたから」
「そんな訳」

 ない、と言いかけて、きら子は今日の事を思い返した。そうだ、夢子が現れるまで苛々もしなかった。いつもと同じように翔太の横で店を見ながら話をして、ジュースを飲んでいた。けれど、夢子が現れてから、もやもやした気持ちがずっと続いている。

 そう思い到ると、愕然とした。きら子は自分に呆れながら、口を開いた。

「そうみたい……。今、気付いたけど」
「え、自覚なし?」
「ないよ、普通。お母さんに男の子を会わせた事なんてないし。浮かれてるお母さんにも苛々したけど、理由、それかぁ」

 腑に落ちた気分できら子は言った。きら子の頭をぽんと翔太が叩いた。

「何、感心してるんだよー」

 頭を叩かれ、きら子は小さく前にのめった。頭のてっぺんがふわっと熱くなった。初めて翔太に体を触れられた。そう思うと、街灯の明かりがぐんと近く見えた。きら子は自分の頭を撫でさすりながら答えた。

「いや、びっくりした。嫉妬かぁ、これ。しかもお母さんに」
「最初から気付けよー」

 翔太がそう言って、足を踏み鳴らしながら笑った。

「だって、わかんないよ。まさか、これが嫉妬なんて」
「きらちゃんって面白ぇー」

 翔太はいよいよ腹を抱えて笑っている。その笑い声にふっと気持ちが軽くなった。笑い声が、いつもの道をすっと光を連れて何処までも伸びていくような気がした。住宅街の家々の隙間から見える夜空が何だか輝いて見える。何よ、と口の中で言いながらも、きら子は翔太につられて笑った。
 
 初めて、男の子と映画に行った。初めて、男の子と買い物に出かけた。初めて、男の子とたこ焼きを食べた。初めて、男の子からCDを借りた。小さな初めてを積み重ねている内に、季節はあっという間に夏になった。翔太は夏に一度ブラジルに帰ると言う。その直前、二人は一日がかりで横浜に行った。

 本当は海に行きたい、と翔太は言っていた。けれど、きら子は翔太に水着姿を見せるのが嫌だった。だから、海が見える町、横浜に行く事になった。
大観覧車に乗り、山下公園を散歩した。マリンタワーに上り、中華街で肉まんを立ち食いした。港の見える丘公園に行き、西洋館を巡り、外国人墓地を見物した。暑い暑いとひたすらに翔太は言い、何度もアイスクリームを食べた。日焼けと日射病防止の為、フリーマーケットで買ったストローハットをかぶり、下北沢で買った古着の白いワンピースを自分でサイズ直ししたものを着ていたら、翔太は「なんだよ、どれだけ爽やかなんだよ」と言った。

 「暑いじゃん。ワンピース涼しいんだよ」と言うと、翔太は「俺、ワンピース好き」と言った。ワンピースが好きなんだ、ときら子は心の奥に書き留めるように思い、そうしたら翔太は見透かしたように「またこれ着てね」と言った。

 時刻は夕暮れに近づき、二人は大桟橋に来ていた。カモメが海上を行きかう姿が、だんだんと見えなくなる。歩いて疲れた足を投げ出し、二人はベンチに座っていた。今日何本目かわからないジュースを飲んで、ふと昼よりも美味しく感じられない事に気付く。夜風は急速に肌を冷やし、水面を撫でて遠くへ消えていく。

「夕焼けだなー」

 翔太が呟いた。西の空には薄くピンク色と橙色が広がっていた。黒い雲が形を変えてたなびき、太陽はその雲の間から茜色の光を海に投げかけていた。

 きら子は、小さく呟いた。

「ブラジル行っちゃうのかぁ」
「でも、二週間だけだよ」
「そうだね」

 それから、また二人の間で沈黙が流れた。自分のワンピースの裾が風に流れて翔太の足に当たっていた。そう言えば今日は随分汗をかいたときら子は思い出す。汗臭かったらどうしよう、ときら子は一瞬考え込んだ。すると、翔太がこう言った。

「きらちゃん、何かいい匂いするな」
「何もつけてないよ」
「シャンプーかな。でも、いい匂い」

 それだけ言うと、翔太はきら子の髪の毛の先を指ですっと触った。きら子は驚いて翔太を見た。翔太は何食わぬ顔で夕焼けを見ていた。横顔が、夕日に照らされて輝いていた。髪の毛が金色に透かされて光っていた。鳶が、家路を急ぐように鳴きながら頭上を横切って行った。

 翔太が、体を伸ばすようにベンチの背もたれに寄り掛かりながら、言った。

「家に帰るの、寂しいな」

 本当は、きら子も同じ気持ちだった。けれど、きら子は頷く事が出来ないまま、ただ、翔太を見ていた。
 翔太が、また口を開いた。

「俺、自分の事を子どもだなんて思わないけど、こういう時に何か嫌になる。もっと年を取ってたら、まだ一緒にいれるんだよな。夜まで遊んだり、どっか泊まったりして」

 頷きたい気持ちと頷きたくない気持ちが交錯して、きら子は無言のままでいた。もっと一緒にいたい。きら子もそう思う。けれど、「どっか泊まったり」という翔太の言葉が何処かで引っ掛かっていた。けれど、頷かなければいけないのだろうか。頷かなければ、翔太はこのままブラジルから戻って来ないのだろうか。そう考えると、どうしていいのかわからなくなった。きら子は膝の上で手を小さく握り締めた。

「早く年を取りたいなんて、今まで一度も思わなかった。でも、今、俺、大人になりてぇって感じ」

 翔太の大人になりたいという意味がどういう事を指すのか。そう考えると苛々した。きら子は思い切って顔をあげた。

「それはセックスしたいって事?」

 目を真っ直ぐ翔太に向けて、視線をそらさないように手をぎゅっと握り締めて、きら子はそう聞いた。翔太の肩が一瞬硬直し、それから、顔がくるりとこちらを向いた。口は小さく開き、目は大きく見開かれている。小さく開いた口から、声が漏れ出た。

「んあー?」

 ん、と、あ、が入り混じった動物の鳴き声のような声だった。夕日はもう沈みかけ、オレンジ色の光は遥か彼方へ消えている。けれど、翔太の横顔は、まだ夕日に照らされているかのように赤かった。

 ばっと横を向き、翔太は言った。

「そんな事言うなよ、そりゃあそうじゃないとは言わないけど」
「だって」

 そう言ったはいいものの、その後、何を言えばいいのかわからなくて、きら子は俯いた。

「だって、何だよ」

 翔太は苛立つように言って、左足をベンチの上に置き、抱えた。

「でも」
「だから、でもって何だよ。きらちゃん一体どうしたい訳?」

 考えた。躊躇った。言うのが怖かった。けれど、きら子は意を決して、こう口に出した。

「もっと一緒にいたいよ。でも、どうしていいのかわからない」

 はあ、と大きく息を吐き、翔太はベンチに持ち上げた左足の膝の上に顎を乗せた。

「そんな事、言われたらどうにも出来ないし」

 そう言って、翔太はまた大きく息を吐いた。

「ごめんなさい」

 苛立った様子の翔太を見て、きら子は思わずそう口に出していた。

「ごめんなさいじゃねぇよ。あぁ、もう!」

 翔太がそう言って頭を抱えた。きら子は翔太の膝に手を置き、もう一度「ごめんなさい」と言おうとした。そこで手首をぎゅっと掴まれた。

 翔太の輪郭のくっきりした瞳に、きら子の姿が目一杯映っている。翔太の瞳の中の自分はすがるような顔で、まるで小さな子どものように見えた。自分はこんなに不安そうな顔をしているのだ。そう思って、きら子はようやく気付いた。

 数か月前に会っただけの男の子と二週間離れるなんて、平気だと思っていた。けれど、本当は寂しかった。たったの二週間でも、どうすればいいのかわからなくなってしまうくらいに、寂しかったのだ。

 掴まれた手首が、ぎゅっと引き寄せられるのを感じた。倒れ込んだ体が翔太の胸の中に包み込まれる。男の子の胸って硬いんだ。そう思った瞬間、顎先に翔太の手を感じた。視線を小さく上げると翔太の顔が眼前にあった。

 それから、二人は小さくキスをした。通り過ぎる船の汽笛が聞こえる。テトラポットに打ち寄せる波がちゃぷちゃぷと鳴る。太陽が、いよいよ水平線の向こうへ沈む。街灯がちらつきながら、あたりを照らしていた。

 暗くなった夜道を、手を繋いで駅まで向かった。電車に乗り、二人は手を繋いだまま、流れる車窓を眺めた。右手から感じる翔太の体温が、言葉以上に饒舌な気がした。もっと一緒にいたいという気持ちが、胸になだれ込むように溢れていた。その溢れた気持ちが二人の胸と胸を見えない糸で繋げているように思えた。

 一時間以上かかる電車の道のりが短かった。駅の改札で切符を出す為に一瞬二人の手は離れた。その瞬間、手のひらにいきなり夜風が吹きつけたように感じられた。改札を出た瞬間、また翔太の手がきら子の右手に伸びてきた。きら子は、先程より強い力でその手を握りしめた。

 最寄り駅から家までの道が、いつもよりもっと短く感じられた。学校に行っていた頃はいつも真っ暗に見えたような道だ。今、夜の道は実際に暗かった。けれど、時折、街灯に照らされる翔太の横顔や、繋いだままの手の熱く脈打つ感触で、足元に広がるアスファルトすらきらきら輝いて見えた。幹線道路から入る細い小道をのろのろと歩く。間もなく、きら子のマンションが見えてきた。

 ずっと無言だった翔太が立ち止まった。きら子の頭をそっと抱き寄せた。さっきよりもずっと、滑らかな動きだった。きら子も翔太の胸に体を預けた。さっきと同じ、熱い体だった。きら子が顔を上げると同時に、翔太が腰を折って口づけた。それから、二人は小さく笑った。

「ブラジル土産、何がいい?」
「何だろう。サンバ饅頭とか?」
「んなもん、ないよ」

 そんな風に話して笑い合う。そして、二人は体を離した。

「成田についたら速効電話する」
「うん、待ってる」

 今までなら、こんな風に素直に言えなかった。そう思いながら、きら子は小さく手を振り、マンションへと入った。

 エレベーターを待つ間も、エレベーターに乗っている間も落ち着かなかった。夢子とどんな顔をして会えばいいのだろうか。そう思うと、頬がさっと熱くなった。バッグから鍵を取り出し、ドアを開ける。部屋の中は暗かった。まだ夢子は帰っていないようだ。

 拍子抜けした気分でバッグを部屋に放り投げ、きら子は冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。普段なら、きら子は家に帰った瞬間に手洗いとうがいをする。だが、今日はそうする気になれなかった。着替えもせずにテレビの前にある大きなビーズクッションに座った。腹這いになり、ビーズクッションを胸に抱いた。ふう、と息をつき、顔をクッションにうずめた。先程まで一緒にいたのに、今すぐに翔太に会いたかった。

 ドアが開く音と同時に夢子の足音が聞こえた。きら子はクッションから顔を上げ、立ち上がった。

「おかえり」

 平静を装ってきら子は言い、「ビール飲む?」と続けようとした。すると、夢子はいきなりにやりと笑って言った。

「見ちゃったー」
「ええ?」

 きら子の声を無視して、夢子は冷蔵庫から冷えたグラスとビールを出しながら、浮かれた調子で続けた。

「同じ電車に乗ってたんだよー。小道に入る所で気付いたんだけど、手とか繋いじゃっていい感じだったから声かけないでおいたの。そうしたら、見ちゃったー。もう、こっちまで甘酸っぱい気分になっちゃったわ。ファーストキスはレモンの味って言うじゃない。やっぱり、きゅんと酸っぱかった?」
「何が」

 見ていても言わないのが、親のたしなみではないだろうか。きら子は憮然とした気分で小さく答えた。夢子は浮かれた調子でビールをグラスに注ぎ、続けた。「きらちゃんと翔ちゃんに乾杯」などと言って、一人でグラスを掲げている。

「ちなみに、私の時は青海苔の味だったわ。たこ焼きを買い食いした後でさ。私もそう言えば、ファーストキスは中二だったなぁ。これも遺伝かしら」

 そんな事を言いながら、スーツを脱いで部屋着に着替えている。きら子は小さく首を振り、テレビの電源を点けた。

「そうそう、そう言えば、この前、その中二の時の彼から連絡が来たの。お盆、実家に戻るなら皆で一緒に飲もうって。同級生、五人くらいで飲んでる最中だったらしくて、皆に『夢子ちゃんは僕らの永遠のマドンナですから』って言われちゃったー。お盆、楽しくなりそうね!」

 でも、皆、禿げてたり、お腹出てたりしたらどうしよう。そんな事を言いながら、夢子はシャワーを浴びに風呂場へと言った。私の話より、自分の話がメインかよ。ふてくされながらも、きら子は思わず笑っていた。私と同い年だった時の夢子は、一体どんな子だったのだろう。微笑みながら、そっと唇を撫でて目を閉じる。まだ瞼に映る残像の翔太の横顔に、もう一度、少し笑った。

[7に続く]


青春! って感じ炸裂の回。
中学生の時って、お金もないし、そして、案外時間もないよね。日中は学校だし、習い事や塾があったりしたら土日も結構時間とられるし。
だから、好きな人と長時間一緒にいられることがそんなになくて、だからこそ、その人と一緒にいる時間が何よりもきらめいて貴重だった。

そんなことを思い出す回だなあ、と。

外に出ることで誰かと会い、誰かと会うことでまだ見ぬ自分の感情を知る、って思春期の醍醐味よね。

実は島暮らし生活をしながらも、今年はまだ海に行けてないわたし。
台風が過ぎたら、ゆっくり海に行こうと思います。

全12回、引き続き更新していきます。

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#私の作品紹介

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作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。