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FC物語(1)フューチャーセンターを立ち上げたきっかけ


はじまりは、大学教育における問題意識とオープンゼミ

私が静岡県立大学に赴任したのは2010年4月ですが、その年からゼミ生を持っていました。そしてその1期生とともに、「オープンゼミ」という名称で、学生と地域の社会人が共に学ぶ場を2010年の秋頃から不定期に開催していました。

これは社会人教育畑出身の私が学部教育に移ったときに抱いた、「大学の中にいると学生が社会人と接する機会がない」という問題意識がベースになっています。アメリカのように一度社会に出た人が気軽に学びに戻れるような大学が理想的だという気持ちと、就活よりもっと前の段階で学生が社会人と接することができる場が必要ではないかという気持ちから、自分の知り合いの中からスピーカーを招いて話を聞く機会をつくろうと思いました。

しかし博士課程最終年度に大学に着任してしまった私は、当時は自分の博士論文の執筆に追われてたため、企画や運営にそれほど時間を割けなかったので、ゼミの1期生に相談した結果、オペレーションは全て学生に任せることになりました。1期生はわずか3人で先輩もいないという環境では少々荷が重いかなぁと心配しましたが、アントレプレナーシップの強いメンバーだったこともあり「(不安はあるけど)面白そうだからやります!」という反応で、そして実際にまったく問題なくこなしてました。ちなみに1期生の1人がお笑い研究会所属だったことからアイスブレイクにコントをするというのが定番になっていましたが、コントは面白くてもスベッても場を和ませるのでアイスブレイクとしては完璧でしたし、学生にとっても度胸をつけるいい経験でした。

さて、「教育機関と地域社会の接点づくり」を目的としてはじめたオープンゼミは好評で、毎回40人程度の参加者を学内外から集めるようになりました。学生からは大人と話すことの楽しさを知ったという声を、学外の参加者からは「学生の意見は新鮮」「課題を別の角度で考えられるようになった」といった声をいただいていました。社会人相手のセミナーを運営する国保ゼミ1期生の姿を見て、学生を見直したと言ってくださる社会人もたくさんいました。

オープンゼミで司会をするゼミ生(2010年)
オープンゼミの様子(2010年)

フューチャーセンターとの出会い

そんな中、あるシンポジウムにて長尾彰さんに出会い、「静岡県立大学でフューチャーセンターを立ち上げませんか?」と声をかけられたのがフューチャーセンターとの出会いでした。私は、社会に求められるものを形にしていくことは好きですし、ゼロをイチにするのが得意でもあると思います。その時点ではフューチャーセンターのことはあまり知らなかったのですが、直観的にオープンゼミの延長だと思えたので実現性は十分あると思い、かつゼミ生に尋ねてみたところ「よくわからないけど面白そうだからやりたい!」(2回目)ということだったので、じゃあやろうか、と。ただ立ち上げるなら国保ゼミらしく、オープンゼミ同様に学生主体でやろうと考えました。

まずフューチャーセンターって何?ということを理解するために、国内外の事例を調べ、富士ゼロックスKDIやコクヨのフューチャーセンターには学生と一緒に視察に行ったり、様々なワークショップに参加したりしました。学生の感想は本質的なところをおさえていると感じることが多く、例えば「今回はディスカッションを十分できたと感じられずやや不完全燃焼なのですが、その理由を考えてみると、会場が広くておしゃれで完成度が高かったので、“ちゃんとした意見じゃないと発言してはいけない”ような感じがした」などという意見は、空間をデザインする際にすごく参考になりました。

地元でのネットワークづくり

視察と並行して、長尾さんがフューチャーセンター立ち上げに向けて、チームビルディングのワークショップを提供してくれまして、4回シリーズのオープンゼミを開催しました。このオープンゼミは回を重ねるごとに学内外からの参加人数が増え、フューチャーセンターの下地となるネットワークを作っていきました。

チームビルディングのオープンゼミの様子(2010年)

ただ、そうやって立ち上げに向けて動き出してはいたものの、私は現状の「オープンゼミ」としての活動でも特に不都合を感じていなかったので、実はわざわざ「フューチャーセンター」と冠する必要性についてハラオチしていませんでした。活動という実態があれば十分ではないか、そこにハコモノを想定させるラベルをわざわざ貼る必要があるのか、と。そして、そもそもたかがイチ研究室で「将来」を語ることに、どれほどの影響力があるのだろうかと。周りの経営者さんやゼミ生が興味を持ってくれたので、立ち上げに向けて動き出したものの、どちらかというと使命感を持ってやっていたというよりは、「皆の学びの機会になるなら」くらいの気持ちでした。その考え方が変わったのは、東日本大震災がきっかけでした。

未来への希望を灯す場をつくりたい

第8回オープンゼミの準備を進めていた2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。静岡は幸い大きな被害がありませんでしたが、テレビや新聞で報道される被害の大きさに言葉を失い、刻一刻と明らかになっていく危機的状況を見て、自分や日本の将来への不安が募っていきました。震災からの復興、放射能被害(風評含む)、電力不足、過剰な自粛モード等々、これから日本はどうなるんだろうか、その中で人を助ける技術も持たず、微々たる額の寄付しかできない自分の無力感にも苛まれました

不安の中でこれまでと同じようなオープンゼミを開催する気にはなれず、とはいえ静岡の自分たちが何もできないことでの焦燥感も大きくて、学生と相談した結果、第8回オープンゼミは当初予定していた「チームビルディング(4回目)」ではなく、被災地から離れた静岡に住む自分たちに何ができるのかを学生と社会人が一緒に考える場として、3月22日に開催しました。

震災直後のオープンゼミの様子(2011年3月22日)

そして、その節電対策で暗い教室で行われたオープンゼミの中で、私は社会人が「どうやって元に戻すか」という発想になってなかなか前向きな意見が出にくいのに対し、学生たちは「無いならしかたない、無いことを所与としてどうすればいいのか」という方向で考えられること、そのためポジティブでクリエイティブな議論になりやすいということに気付きました。そしてこの様子を見ていて、社会に希望をもたらすのはこれから社会に羽ばたいていく学生たちの存在なのだなあと実感したのです。私は、その場から「こういう人達がいるなら未来は大丈夫そうだ」という希望をもらいました。そして、この希望をもっと広げていきたいし、広げなければならないと思ったのです。

そして人材育成や教育の経験が長い自分が希望を広げるために出来ることは、こうした希望をもたらせる人を一人でも多く育てること、その人たちが活躍できるような場をつくっておくこと、ではないかと思いました。その手段として、学生たちと一緒にポジティブな未来志向で対話する場を定期的に開催し、なおかつその場に「フューチャーセンター」というラベルを貼ることで組織の内外に対して方向性を明確に示して人が集まりやすいようにしようと考えたことで、設立を決意するに至ります。漠然とした「フューチャー」を考える場というより、「フューチャー」を自ら切り拓いていこうとする人が次々に輩出される場、そんな人たちを全力で応援する人が集まる場。そんなフューチャーセンターを創りたいと考えました。

このフューチャーセンターは、その原動力となる学生がいないと話になりません。私一人でフューチャーセンターを名乗ることは出来るけど、中身のない、とってもつまらないものにしかなりません。そういう意味では、私が創るというより、「学生が創るフューチャーセンター」であり、私はその後方支援をしていると思っています。

目次
(1)立ち上げたきっかけ
(2)立ち上げ前にやったこと  ←次の記事はこれ
(3)立ち上げ初期に大変だったこと
(4)実践を通じて分かったこと
(5)場の構成要素
(6)数年後に考えたこと
(7)プロジェクトの具体例
(8)コロナ後の大学生の状況

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