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誰もが持つ、自分だけの物語

 小川洋子は天才だ。

 私がそう肌で感じたのは、「薬指の標本」を読んだ時だった。
 いったいどういう話なのか?と聞かれても上手く説明できる自信はないし、じゃあなぜ小川洋子を天才だと思ったのか?についても同様だ。私はこの作家の良さを切り取って表現するだけの言葉を残念ながら持ち合わせていない。

 今回、「人質の朗読会」を読んで、改めて私は小川洋子の凄みに触れた。
 柔和で繊細で、誰にとっても理解しやすい言葉が使われているのに、「この表現しかない」という堅固な意志を感じさせる。どこか伝統工芸職人めいた実直さとこだわりがそこにはある。

 「人質の朗読会」は、人質全員が爆死したことを冒頭で前置きしている。故郷から遠く離れた異国の地で、自分たちとは関係のない争いに巻き込まれて死んでしまった8人は、どれほど無念だったろうか。

 よくある話の展開では、焦点はラジオ局の記者に当てられるだろう。8人の遺族のもとへ奔走し、それぞれを説得し、上層部の反対を押し切って、録音テープを流すのだ。それは世間の注目を浴び、否定的な意見が多い中、遺族たちの傷付いた心に癒しを与える。そして、主人公である彼の中で燻っていた苦々しい過去とかトラウマなんかにも光を当てていく。
 ……うーん、凡庸。お涙頂戴感が強くて逆に冷める。
 そう、やはり「人質の朗読会」は天才である小川洋子だからこそ書けた物語だったのだ。

 人質一人一人の物語は、実にとりとめもない。大きな事件や急展開なんか用意されてないし、オチもない。雑談の種になるのが関の山の、言ってしまえば地味な話だ。
 けれど、彼ら本人にとっては大切な出会いや経験であった。だからこそ、今にも殺されるかもしれないという状況下で、あえてそれを言葉にして残そうとしたのだ。

 私は一人一人の物語に没入し、共感し、心穏やかな気分になったが、そうすると次の瞬間には背筋が冷たくなった。これを語っている人物の最期を思い出し、苦しく、切なくなった。この出会い、経験さえなければ、もしかしたら彼らはこの国に行くことも、こんな悲惨な死を迎えることもなかったのではないかとさえ考えた。

 しかし、彼らの語り口にはそんな後悔は微塵も感じられず、むしろ誇りすら漂っている。それは故郷について語ることに近いように思えた。

 ラストのハキリアリの話は圧巻だった。この中で唯一の生者であり、全ての傍聴者だった彼は、亡くなっていった8人の祈りを故郷へと届ける。
 なんて美しい終着点だろうと思った。彼の存在により、8人の人質は供物を定められた一点へ運びきり、その役割を全うしたわけだ。

 自分以外の誰かのささやかな物語にも、もっと目を向け、耳を傾けなければと思わされる一冊だった。

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