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書くために生まれてきたんじゃなかった。

……と、思うようになったのは、春先のことだった。

いや、春先ではなかったかもしれない。心の底では薄々気づいていたのだけど、頑張って見ないふりをしていた。本当は、ずっと前から気づいていたのだと思う。私は、書くために生まれてきたんじゃなかったんだろうなって。


それを自覚した頃、私は毎日のように誰かの話を聞いていた。以前は、「面白い話をして爪痕を残さなければ!」と、バラエティ番組のひな壇に座っているお笑い芸人のような気持ちで人と会っていた。でも、書き手としてインプットを増やしたい、ライターとして取材力を鍛えたいと考えるようになってからは、意識が変わった。自分の話をするよりも、相手の話に耳を傾けることに時間を使うようになった。注意深く相手の話を聞き、気になる点があれば質問をして掘り下げていく。我ながら良い質問ができたときは得意になったし、これまで知らなかった相手の一面が見えたときは、心の中で収穫祭を行った。


でも、そんなふうに人の話を聞くようになると、ひどく落ち込むこともあった。ときに相手は、私が一度も体験したことがないような、とんでもないエピソードを語って聞かせてくれる。心温まる感動的な話もあれば、心が張り裂けるような壮絶な話もあった。そんなエピソードを聞くたびに、「“表現する”という行為は、こんな体験をした人のためにあるんだろうな」と思うようになった。

私の人生を振り返ってみると、実に平々凡々だった。それなりにつらいこともあったし、それなりにうれしいこともあった。たぶん、激動の人生を歩んできた人にとって、この平凡さは心底うらやましいことなのだろう。程よい振れ幅で、一般的に幸せな人生を歩んでこれたことには、神様に感謝する。

私の人生に起こった、掬える限りの出来事を一つひとつ掬って、まじまじと眺めてみる。それらは、とびっきりキラキラ輝いているわけでもなければ、違和感を覚えるほど歪なわけでもない。誰もが一度は体験したことがあるような、普遍的で、取るに足らないことばかりだ。そんな平凡な出来事を、私はこれまでよく頑張って書いてきたなと思う。どこか既視感のある丸くぼんやりとしたエピソードを、己の鋭利な性格で研ぎ、呆れもする正直さで磨いて、「自分語り」として成立するように書いてきた。その技術だけは、まあ、感心する。

しかし、すさまじい話を聞く度に、「私に書く資格なんてない」と感じるのだった。書くために生まれてきた人は、書くに値する出来事が次々と起こっているような気がしていた。ポンポンと爆発が起こって温泉が湧く、そんな印象だった。でも、私にはそれが起こらない。朝が来たら目覚め、夜が来たら眠るという日常が、規則正しくやってくる。こんなに文章を書くことが好きで、書きたくて書きたくてたまらないのに。掘っても掘っても温泉は湧いてこない。そうしてふと、「書くことなんて何もない」と、我に返ってしまう。

ああ、私、書くために生まれてきたんじゃなかったんだな。


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「書くために生まれてきたんじゃなかった」と失望して、それで諦められたら、どれほどよかっただろう。“諦めの悪さ”だけが、私の長所だと思う。8歳で文章を書き始めた私には、書くために生まれてきたんじゃなかったとしても、もうコレしかないのだ。簡単に諦められるなら、とっくの昔にやめてたよ。

「書く資格なんてないのかな」と落ち込むとき、私は自分で自分に「書く資格」を与えるようにしている。聞こえのいいことを言えば、大前提として「書きたい気持ち」さえあれば、「書く資格」をクリアしているのだと思う。でも、私のように「書きたい気持ち」だけじゃ「書く資格が足りない」と思ってしまうような強情な方には、もう一歩その先に何かが見つけられるといいのではないだろうか。

その先の何かは、「コンテストで賞を取った経験」のような、誰もが認める栄誉である必要は決して無い。大きくて立派なものではなくて、もっともっと小さなもので十分だと、私は思う。


たとえば、私の場合は、新卒のときに勤めていた会社のことを思い出す。その頃の私は、漠然と文章を書く仕事がしたいと思いながらも、事務の仕事に勤しんでいた。

その会社には、「日報」という制度があった。終業時に、今日どんな仕事をして、どんな感想を持ったのか書き、上司に提出しなければならなかった。しかし、日報を書いて提出するのは若手社員だけで、中堅社員はほとんど書いていないようにみえた。あまりの忙しさに、だんだん日報を書いている時間が惜しくなっていくのだ。評価に直結するものではないし、「とにかく一言でも何か書いてあればいい」というゆるいものだった。ありがたいことに、提出しなくても咎められるような雰囲気はなかった。

事務仕事なのにすごく忙しくて、私は大抵夜22時まで会社にいたし、土曜日も出勤していた。「募集要項に土日休みって書いてあったんだけどなあ」と文句を言いながら、仕事をこなす日々。次第に日報を書いている余裕がなくなって、土曜日にまとめて6日分提出するようになった。to doリストを取っておいて、それを見ながら何の仕事をしたのか書いていく。まとめて提出している後ろめたさがあったからか、毎日同じ感想にならないようにだけ注意していた。


「玄川さんの日報、おもしろいって部長が笑ってたよ」

ある日の昼休みのことである。オフィスの近くにある、個人経営の小さなベトナム料理屋さんで、私は同期とランチを食べていた。料理屋というよりカフェといったほうがいい、優しい雰囲気が漂う小さなお店だ。

普段は昼休みですら外に出られない忙しさなのだけれど、その日は同じ部署の同期とたまたま外でランチをすることができた。同じ部署でも、同期の彼女とは所属チームが違うので、繁忙期の波も異なる。私の忙しさが落ち着き、バトンタッチするように彼女の仕事が忙しくなり始めた頃だった。

「昨日の夜、急に部長が一人で笑い始めたから、何事かと思ったの。そしたら、玄川さんの日報を読んでたんだって。びっくりするから急に高笑いするのやめてほしいわ」

パクチーを抜いた鶏胸肉のフォーを食べながら、彼女が呆れて言った。

そういえば、部長が笑いをこらえているようなニヤニヤした顔で書類を眺めているのを、私も何度か目にしたことがあった。そうか、あれは日報を読んでいたのか。夜の活気を失ったオフィスで、部長が急に高笑いをあげるのはさぞ恐ろしいことだろう。そう思いながら、私はどこかうれしかった。自分の書いたほんの些細な文章で、誰かを笑わせることができると知ったからだった。それは、私に「書いてもいいですよ」と、許してくれているみたいだった。


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――なんていう些細な出来事を、私は今も大切に抱きかかえている。正直にいえば、当時日報に何を書いていたかなんて、まるで思い出せない。もしかしたら、「お腹が痛い」とか「今日も眠い」とか、若気の至りでそんなことを書いてしまった日もあったかもしれない。でも、それくらい気を張らずに、何気ないことを書いていた。それを「おもしろい」と言ってくれる人がいるのだから、私だって書いてもいいんじゃないのかと思ったのだった。

もちろん、これまで読者の方からいただいたメッセージも、すごく大切に受け取っているし、それらすべてが私にとって特別なものだ。それだって、「書く資格」になり得ると思う。

でも、今noteに書いている文章と、あの頃書いていた日報は、やっぱり違う。今書いている文章には、どうしたって下心が透けてみえる。評価されたいとか、何者かになりたいとか、そんな下心が100%ないとは言い切れない。良い人だと思われるように、少しでも褒められるようにと、心のどこかでそんなことを思いながら書いている。わざわざ燃えそうなことは書いたりなんかしない。

下心のない文章――感想をもらうこと、評価に関わらないことを前提として書いた文章を褒められたから、私の自信になったのだ。「私だって書いてもいい」と、ちょっとは思えるようになった。今の私に、下心のない文章が書けるかと問われたら、もう書けない気がするけれど。


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それからもう一つ。日報の話とは別に、今でも大切に心にしまっている、「書いてもいいんだ」と思わせてくれたエピソードがある。それは、今から十年以上も昔の話。大学受験のために予備校に通っていた頃のことだ。私は、英語のクラスでなぜか「学級通信」を執筆していた。


そのクラスは、数ある英語クラスの中でいちばん成績が悪い人が集まっていた。予備校のスタッフには、もはや大学に合格することすら危ういのではと影で囁かれていた。こんなことを書くといやらしいけれど、私はもう少し上のクラスに入りたかった。高校では一応学年トップの成績を収めていたので、「私は優秀である」という(今となっては浅はかな)プライドを持っていたのだ。

それに、担当講師がかなり風変わりな人で、御年50歳の関西弁を話すギャル男だった。金色の髪をライオンのように盛ったヘアスタイルに、細い脚を強調するブーツカットデニム、つま先のとんがったブーツ。2000年代当時ですら、そのスタイルは特段流行ではなかった。「人を見た目で判断してはならぬ」と今の私なら思えるけれど、高校生の私は「この人から教わるのはちょっと無理」と思っていた。でも、他の授業との兼ね合いで、どうしてもそのクラスを受けるしかなかった。毎週水曜日、18時から21時半までの2コマぶち抜きの授業だった。

そのギャル男は、風貌とは裏腹に学校の先生のような人だった。「仲間を大切にしなさい」「顔を上げて、明るい人でありなさい」。そんなことをよく言っていた。授業は雑談が大半だった。彼の雑談を聞いている時間がもったいなくて、こっそりテキストに目を落としていたら、「今までそんなに怒られたことないんですけど」というくらいこっぴどく叱られた。


私がなぜ学級通信を書き始めたのかというと、そのクラスは異様に諸連絡が多かったからだ。クラスの絆を大事にするギャル男は、みんなで勉強会を開催するように促していた。クラスの何人かで渋々勉強会を企画し(怒られるのが面倒だった)、その詳細を真っ白なA4の紙1枚に書いて、教室の入り口に置いた。詳細だけだとつまらないから、ちょろっと他愛もない文章を添えて。

事務連絡のない週も、どういうわけか私は学級通信を書いた。ギャル男のクラスは予備校なのに座席が決まっていて、その座席表を管理していたのが私だった。座席表だけ置いておくのも味気なかったのだと思う。私はいつも授業が始まる30分前に、自習室からカフェテリアに出て、コンビニで買ったおにぎりや肉まんを頬張りながら学級通信を書いた。カフェテリアには、誰でも使用可能なA4のコピー用紙がドサッとむき出しで置かれていた。理系の学生が計算用紙に使うために置かれていたのだと思う。あの紙を、学級通信を書くために使っていたのは、あとにも先にも私だけだったんじゃないだろうか。

学級通信に何を書いていたのか、1ミリも思い出せない。でも、読まれなくてもいいような、なんでもないことを書いていたんだと思う。先週の先生の雑談でここが面白かったとか、先日の勉強会は何人参加してくれてうれしかったとか、受験には一切役立たないことを書いていた。その学級通信を、クラスの誰が読んでいるか意識したことはなかった。読んでもらえたらうれしいけれど、誰も読んでくれなくてもいいと思っていた。


「も~~阿紀! 泣かせないでよ!!」
「学級通信読んで、泣いちゃったじゃん!!」
「今日で最終回なのかあ……」
「阿紀の書いてくれる学級通信、毎週すごく楽しみにしてた~」

入試を間近に控えた、最後の授業の日。私はいつも通り学級通信を書いて、教室の入り口に置いた。事務連絡のほかに、4月からの思い出と、クラスのみんなへの感謝の言葉を、つらつら書いた。

最終号を読んでくれた友達がそうやって声をかけてくれたのを、私は十年以上の月日が流れた今も、忘れずに覚えている。そのときは、「みんな大げさだなあ」としか思わなかったし、「泣くほどか?」と驚いた。「そんなことより、明日からいよいよ入試が始まるね」くらいの気持ちだった。

それが、今の私にこんなにも自信を与えてくれることになるとは。あの日、みんなは、遠い未来の私に向かって「書いてもいい」と言ってくれたのだ。


今日で最後の授業なので、少し真剣な話をしたいと思います。ここからは別に読まなくていいです。

このクラスは、4月から本当にいろんなことがありましたね。毎時間誰か怒られて、誰かいなくなって……って。正直私も「やめちゃおっかなー」と思っていた時期もありました。だって私、本当はみんなでわいわいやるのとか激しく苦手だし。でも、先生が「自分の環境をよくするには、自分がどうするかだ!」と言っていたのを、なんとなーく覚えていて。「それなら」と思って、手が、いや身体が? 勝手に動いてしまいました。

勉強会とか、この学級通信とか、最初は「どうかなー?」と思っていたけど、みんなが協力してくれるし、これも最後まで目を通してくれるから、初めて私は「ここで良かったなー」とか、「やってよかったなー」とか思えるようになりました。先生も叱ってくれるし、スタッフさんもすごく心配してくれるし、みんないい人だし、私は(いつも言うけど)幸せ者です、世界一。自分勝手に好きなことをやって、サラリと毒を吐く私に、良くしてくれてありがとう!

私はここでの経験を夢に活かしてみせます。きっとみんなにとっても、絶対にプラスになるはず。明日もこれからも、試験は大変だけど、オプティミストで乗り切ろうね! また、笑顔でみんなに会えますように。

玄川阿紀

18歳の私が書いた学級通信(最終号)。
思い出に取っておいたものを実家から発掘しました。


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私は、8歳からずっと文章を書いてきたけれど、お恥ずかしながら、これといって華々しい功績はありません。子どもの頃に親や先生から文章を褒められたこともないし、読書感想文で賞を取ったこともない。口が裂けても「書くことが得意です」なんて言えません。それに加えて、後世に語り継ぐ必要のあるような、意義のある希有な経験も、ありはしません。

でも、たぶん、誰もがみんな、こんな経験を持っているわけじゃない。それだけが書く資格ではないと思う。そんな経験がなくても、世の中には書きたい人がいっぱいいるし、書いてきた人もたくさんいるはずだ。私は、書くに値する資格や経験がなくても書いていける人になりたいし、同じように書きたい人の背中を押せるような存在でありたい。


書く資格なんてないのかも。書くために生まれてきたんじゃなかったのかも。そんな絶望が心に舞い降りたとき、私はいつも記憶の海を泳いで、そっとたぐり寄せている。「私だって書いてもいい」と思わせてくれた、あのほんの些細な出来事を。



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