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雨は降るのか、落ちるのか

2/23は父方の爺さんの七回忌(かつ誕生日)であった。私は爺さんにお世話になった人間だ。
自転車の乗り方を教えてくれたのも爺さん。
キャッチボールをしてくれたのも爺さん。
将棋で遊んでくれたのも爺さん。
落語を聞かせてくれたのも爺さん。
写真をたくさん撮ってくれたのも爺さん。
あと、足が痺れた時に追い打ちをかけてきたのも爺さんだった。

妙に屁理屈をこねる無口な爺さんだった。人の言葉尻を捉えて揚げ足を取るのが本当に好きで、
「こちらホッケ定食になります」
と店員が言おうものなら、三分ぐらい待ってから、
「いつホッケ定食に”成る”んだ」
と小声で冗談めかしたりした。

家族で笑点を見ている時に、三遊亭小遊三がしきりとバ○アグラを連呼することがあった。
ピキーン。この言葉、新婚さんいらっしゃいでも聞いたことがある気がする。
私は、どうしてもそれが何か知りたくて、婆さんにバイ○グラは何かと問うた。しかし「そういうのは私にはわからんから、お爺ちゃんにききゃあ」と突き返されてしまった。
仕方なく、私は爺さんに問うた。爺さんは半笑いでこう答えた。
「”けひゃぁぐすり”だがや」
ほう、毛生え薬ですか。
確かに爺さんはだいぶ頭頂部が薄かったので、婆さんは気を遣って言えなかったのかもしれない。笑点で笑いが取れた理由は、きっと桂歌丸イジリなのだ。いろいろと合点がいった。
次の日から、通学路の電信柱に貼ってあるあの伏字のバイア○ラに関しては、「非合法で取り扱われるとてつもなく強烈な毛生え薬」と認識した。
それが精力剤と知ったのは、20を裕に超えた時。私にインターネットの自由が与えられた時だった。
してやられた。
額が広くなってきたことを気にして育毛剤を探している職場の上司に、危うくバイアグ○を勧めるところだった。

爺さんの奇妙な言葉選びは枚挙にいとまがないが、その中でも一つ、答えを教えてもらっていないものがある。
それが、
「雨は降るのか、落ちるのか」
である。

ふ・る【降る】読み方:ふる
1 空から雨や雪などが連続的に、広い範囲にわたって落ちてくる。また、細かいものが上方からたくさん落ちてくる。
2 霜がおりる。
3 日光・月光が注ぐ。
4 多く集まり寄ってくる。

デジタル大辞泉(https://www.weblio.jp/category/dictionary/sgkdj)

お・ちる【落ちる/▽堕ちる/▽墜ちる】読み方:おちる
1 上から下へ自然に、また、急に移動する。
㋐落下する。
㋑雨・雪などが降る。
㋒日・月が沈む。
㋓光・視線などが注ぐ。
(※以下略)

デジタル大辞泉(https://www.weblio.jp/category/dictionary/sgkdj)

デジタル大辞泉では、上記の通りだ。

困ったことになった。
【降る】の中に【落ちる】が、
【落ちる】の中に【降る】が、
内包されてしまっているではないか。
【降る】では、連続的・細か・広範囲であることが条件とされ、【落ちる】では、自然に・急にであることが条件となっている。そこの絶妙なニュアンスの違い以外はほとんど同じような扱いである。
このままでは二語の違いどころか、ほぼ同義だ。

……いや、待てよ。
よく見たら、【降る】の意味の中には、【落ちて”くる”】という、傍観者的立ち位置からの視点が含まれている。ということは、この対比は、
【落ちてくる】と【落ちる】
の戦いだ。
つまり、雨を受ける下界の万象にとってその雫は【降る(落ちてくる)】もので、天空や雨側にとってその雫は【落ちる】ものなのだ!

──しかし、実際爺さんが言いたかったのは、本当にそういう形式ばった答えなのだろうか。もう少し別の視点から考えてみる。

【降る】には叙情的な雰囲気を感じる。自分の意思では避け難いものに対しての諦観が滲み出ており、いくばくかの哀愁も感じ取れるからだろう。【降りかかる】なども、身に及ぶ災難を予見させる。
一方【落ちる】はある種機械的な動作だ。「リンゴが落ちる」と書いた時、一つのリンゴが重力加速度に従って自由落下する様が思い描かれる。【落ちる】には、ニュートン的具体性と理屈がある。

そういえば、爺さんはこうも言っていた。
「落ちてくる雨を一つ一つよければ、濡れることはない」
おそらくだが、爺さんは、雨に【落ち】て欲しかったのだ。そうすれば、理論上は避けることもできるから。
爺さんの本質は、言葉遊びが物理概念を揺るがすところにあった。
うんうん、この屁理屈具合の方が、爺さんっぽい。

法事の日は朝方に激しく雨が【降った】。篠突く雨だった。
どうにも避けられない雨だ。足止めをするように雨は地に注がれていた。
爺さん、やっぱり雨は【降る】んだ。でも、なかなかどうして、悪くはない。雨が【降る】たびに、否が応でも私は爺さんを思い出すからだ。
爺さんが背を押してくれた自転車の練習のことも、最後に果たせなかったキャッチボールの約束も、爺さんが撮った私たち三姉妹の写真のことも、全部全部一緒くたにして思い出すからだ。

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