もうすぐ消滅するという人間の翻訳について

ひとつの翻訳が、終わった。

1本の翻訳原稿を仕上げた、わけではない。
この世界に存在していた翻訳のひとつが
いま終焉を迎えたのだ。

2024年末現在、僕の手元にきている来年の依頼は0件。
2025年の収入見込みも畢竟、0円ということになる。

あくまでもひとつの翻訳の話である。
つまりは翻訳のひとつの話である。
関係ないと思うならこの先を読まなくてもいい。
自分の知る現実と違うならこの先を信じなくてもいい。

人間の数だけ人間があり
現実の数だけ現実がある。
そのような場所を
あるいはそのとらえ難さをこそ
人は「世界」と呼ぶのだから。

そうしてその「世界」の中で
ひとつの翻訳が終わった。
じつに翻訳のひとつとして
文字通り終わってしまった。

もっとも、収入の見込みが完全に断たれた経験はこれが初めてではない。

わずか数ヶ月前まで遥かな対岸でちらちらと燃えていたはずの疫禍がその存外長い舌を露わにして瞬く間に欧米を舐めつくし、海外アーティストの来日プロジェクトも日本人アーティストの海外渡航プロジェクトも等しく灰燼に帰してのち、舞台芸術を主たる活動の場としてきた僕のスケジュールがあますところのない空隙に塗り替えられたのはまだほんの数年前のことだ。

あまりの惨状に却って気が抜けてしまい
「向こう半年の主要な収入源が完全に断たれました」
と端的にtweetしたところバズを起こして知らない方々から励まされたり
(日本にはこんなにも心優しい人がいるのだな、と知って驚いた)、
「芸術かなんかしらんが日ごろ好きなことやって偉そうにしてる報いだ」
と罵倒されたり(日本にはこんなにも芸術を忌み嫌う人がいるのだな、と知っていたので驚かなかった)、あげく新聞社の取材を受けてインタビュー記事が掲載されたり。
あの時の虚な空気は心身の隅々まで行き渡ったまま、現在も吐き出されきることはない。僕が頭の中の真っ白な手帳をパラパラとめくりながら仰臥するのはだから、じつに人生で2度目ということになる。

だが絶望の度合いは違う。
はっきりと違う。
今回の方が、格段にふかい。

むろん疫禍に希望があったわけではない。
じりじりと延期に延期を重ねてきたプロジェクトがそこかしこで中止決定の断末魔を上げ、力尽き斃れてゆく人々の噂は途切れることがなく、補償を求めて声を上げれば「芸術は特別だとでも思っているのか」と謗りを浴び、「明けない夜はありません!」という文化庁長官の激励文が曙光に照らされた屍の山を暗示する中でいつとも知れぬ再開を待ち続けた日々に希望などあったはずがない。

それでも、いまこの瞬間
白々としたページの向こう側で
ただ絶望の色合いだけがいっそうくきやかだ。
ひとえにこの状況が不可逆であるからに他ならない。
「これ」は終わらない。
そうしてひとつの翻訳が、たしかに終わったのである。

あなたが売れていないだけでは、と指摘する向きもあるだろう。
個人の零落をもって「翻訳の終わり」とはなんたる厚顔、
おまえはどの立場から翻訳を語るのかとお叱りを受けるかもしれない。
そのいずれも否定する気はない。
事実だからではない。
冬空を仰ぐ砂漠の真ん中で裸のまま議論に興ずる気になれないだけだ。
それほどまでに圧倒的な危機の話を、いまからする。

ひとつの翻訳の終わりに先立ち、まずひとつの通貨が終わった。
つまり、円が終わった。

2024年7月11日、1€は約175円を記録。
以降、現在に至るまで160円強を維持している。
ユーロ導入の年である1999年7月のレートは1€約124円だった。
フランスで現金通貨としての流通が始まった2002年には約116円だった。
バブル以降30年の不況で減らされ続ける予算と戦っていたところへ疫禍で未曾有の深傷を負い、回復もままならぬうちに始まった東欧の戦争で航空券から食料品に至るまでの止まらない物価高に追い討ちをかけられた挙句「インバウンド需要」なる呪文が国の貧困化を観光依存で糊塗する影で暴騰を続ける滞在費を前に茫然と立ちすくむ舞台芸術界に海外、なかんずく欧州との交流を続ける体力などもはや残っているはずもなかった。

高い。
すべてが高い。
高すぎる。

かくして日本中の国際演劇祭から欧州の作品が消えた。
日本中の劇場の年間ラインナップから欧州のアーティストが消えた。

むろんゼロになったというわけではない。
かろうじて呼べる規模の小品や個人で来日するアーティストの講演、展示、ワークショップなど優れた企画を精力的に打ち出す場所も、人も、たしかに存在する。

けれど海外から劇団を丸ごと招聘したり、外国人演出家を招いて長期にわたり滞在制作を行うような大掛かりなプロジェクトは激減した。
そうしてそれは、すくなくとも僕のように戯曲の翻訳や字幕制作、アーティストの通訳といった業務を専門に手がける人間ひとりを干上がらせるには十分すぎる減り方だった。

舞台の世界で働いていると、久しぶりに会った人からよく
「いまはなにやってるの?」と尋ねられる。
一部の商業演劇とオペラを除いて薄給だから
絶えず数をこなしていなければ食えないという業界の事情もある。
時候の挨拶にも等しいその質問が、いつの頃からか苦痛になった。

「ひらのさん、いまはなにしてるの?」
「あいかわらず忙しいんでしょう?」

努めてシンプルに
「ひまです。仕事ないから」
と答えても
「またまた〜」「絶対うそ」
と笑われる。

仕方なくこう続ける。

「あのね、じゃあ逆にききますけど、おたくの劇場で最近なにか海外もの呼びました?」

(はっ)という顔をする人。
「……そうですよね、すみません」と謝ってくれる人。

謝ることなどひとつもない。
経済も経営もからっきしの僕でも
この有様が属人的な失態や組織の経営ミスではない
もっとマクロな構造に起因していることくらいわかっている。
僕の近況を気にかけてくれる人たちが
また一緒に仕事をしたいのに、と思ってくれていることも知っている。

作品づくりを共にした人たちは戦友だ。
戦争を想起する比喩が慎重に忌避される現在でもあえてそう呼びたい。
分かち合った時間と厚意に感謝こそすれ恨みに思う理由はひとつもない。
そのすべてが過去となりひたすらに遠ざかってゆくばかりであろうことがただ、切ない。

ありふれた感傷の洪水をものともせず
砂漠は翻訳家の足もとを粛々と侵してゆく。
砂漠で生き延びる術を知っているのは
砂漠に生まれついた者だけだ。

「ちょっと悲観しすぎでは」
「仕事をしていれば良い時もあれば悪い時もあるでしょう」
「構造不況とはいえ大げさにもほどがある」
「自己憐憫もたいがいにしろ」

液晶越しに誰かの声がする。
あるいはすべて自分なのかもしれない。

いいだろう。
30年このかた不況から抜け出せぬまま少子高齢化だけを順調に進行させ人口の約18%を75歳以上が占めている現実と15年後には約35%を65歳以上が占めるであろう予測の狭間で出生率の低下とともに労働人口を減らし続けているこの国に神風が吹いて経済が上向いたとしよう。
そうして映画館では国内作品のシェアが急拡大し海外文学市場は一部の人気作家と時代を席巻する韓国文学を除き部数も印税も落ち込み続ける一方でNetflixやAmazonプライムを筆頭に群雄割拠するストリーミングサービスさらには無料のオンラインコンテンツまでもが生身の人間から有限の時間を奪い合うことに血道を上げているこの状況でケラリーノ・サンドロヴィッチが「もうチケ代上げたくない」と苦しい胸の内を吐露せずにはいられないほど上がり続けるチケット代に合わせて観客の年齢層も上がり続ける舞台業界が奇跡のV字回復を達成するなどという最盛期の梶原一騎ですら眉をひそめかねない展開を戯れに信じ込んでみるとしよう。

それでも、ひとつの翻訳の終わりは止められない。
かりそめの延命を得て
やがて翻訳そのものの終わりをも招来する。
もはや終わりの始まりですらない。
終わりの終わりに他ならない。
それほどまでに根源的な力学の話を、いまからする。

ひとつの翻訳の終わりを早めるべく、まずひとつの技術が加速した。
いうまでもなく機械翻訳である。

半世紀前、機械翻訳がまだルールベース翻訳と呼ばれていたころ、その存在を知る人は専門家だけだった。

90年代後半、統計的機械翻訳(SMT)の登場が革命をもたらしてもなお、PCを持つ人自体がまだ限られていた世界は静かなままだった。

2000年代前半、パソコンとインターネットの普及が全世界規模で進むと機械翻訳はwebページの自動翻訳を試みるようにはなったが、訳文の解読は依然として利用者の自助努力に付託されていた。

2006年、Google翻訳が公式にサービスを開始。
機械翻訳の認知度は急激に高まり、Googleはわずか数年で対応言語を50以上にも増幅、程なくして大型ディスカウントショップで売られる格安製品に機械翻訳と思しき多言語仕様の取扱説明書が付いてくるようになった。
それでも、「Google翻訳みたい(笑)」は依然として「質の悪い翻訳」を揶揄する常套句であり続けていた。

2014年、Google翻訳のニューラル機械翻訳(NMT)導入を転回点として機械翻訳は新たなフェーズに入る。

2017年にはドイツ発のDeepLが登場しそれまで市場を独占していたGoogle相手にめざましい競争力を発揮、訳文の自然さ、柔軟さの面でGoogleを凌駕し、ビジネスの現場はおろか学術の世界でも多用されるようになる。
英語をはじめとする様々な言語で書かれた論文の下読み、あるいは逆に自身が様々な言語で発信する際の添削といった用途が主であり、
とりわけ英語を第一言語としない研究者の国際競争力を飛躍的に高める補助ツールとして期待された。明治維新以来の永きにわたり不当な英語コンプレックスを抱かされてきた日本国民が僥倖に湧く姿を眺めながら明治維新以来の永きにわたり翻訳大国日本を支えてきた専門家たちが危機感を抱かされるのは正当なことに違いなかった。

とはいえ、処理しきれない部分を巧妙にねじ曲げ意味が通るように改竄したり、あまつさえパラグラフを丸ごとカットして素知らぬふりを決め込んだりと暴挙に及ぶことも厭わないDeepLに重要な文書を丸投げするのはあまりにリスクが高く、「機械翻訳を使いこなすにはまず自身が相当の語学力を身につけるべし」という人々の良識は揺るがなかった。
「Googleは不器用だけど真面目な学生、DeepLは要領はいいけど不真面目な学生」と言って笑う者もいた。
機械翻訳の進化がもはや門外漢の想像の及ぶ次元を超えていることは明らかだったが、文学作品や漫画のような機微を問われる言葉の翻訳をも独力で精確に完遂できるほどに進化しきった機械翻訳の姿とそれがもたらす新たな世界秩序を実感とともに思い描ける人もまた決して多くはなかった。

2020年代を迎えるころになると、文芸畑の人々もそれまで薄目で盗み見てきた問いと正面から向き合わざるを得なくなった。

ある翻訳家は「いつかは奪われるんだろうけど、自分達世代は逃げ切れると思うから」と後ろを向いて希望を述べた。
ある編集者は「でも、ぜひこの人に!と思わなければ依頼しませんから」と胸を張って矜恃を示した。
ある読者は「やっぱり、この作家にはこの訳者じゃないと!って思って買いますから」と両手を握って支援を誓った。

誰もがなにかを信じようとしていた。
大切にしてきたものを守ろうとしていた。
そうしてそのぶんだけ不安そうだった。

僕にはすこしも不安などなかった。
なにもかも信じていなかったから。

あるとき、連載の依頼が舞い込んだ。
今はあまり書きたいこともない、なにかお題をいただけませんかとお願いすると「人間の翻訳・通訳ならではのよさ、魅力」について書いてほしいという。
僕はだいたいこんなふうに返信した。

私は、すくなくとも通訳翻訳という分野においては「人間の人間による人間のための仕事のかけがえのなさ」を信じておりません。
大方の人間はコスト削減に魂を売り渡す。
それが、私たちの選んでしまったグローバル資本主義であり市場原理主義のもたらす結末だと考えています。
私はたまたま舞台芸術という機械化の波が及ぶのがいちばん遅いであろう分野を専門にしているので、
いくらかの猶予をもって業界の滅亡を待っているに過ぎません。

もちろん未来のことは人間には知りようがありません。
どのような揺り戻しが訪れるかもわかりません。
しかしながら、そのような、後ろ向きな気持ちを包み隠さず綴るようなもの、すなわち

「この時代に通訳を目指すことに意味があるのか」
「翻訳という仕事につきまとう虚しさ」

といったテーマでなければ、今の私には書けそうにありません。

ある編集者へ宛てた、ある日のメールより



連載は始まらなかった。


「極論に走り過ぎ」
「多忙な翻訳者もたくさんいる」
「むしろ需要が拡大している分野もある」
「人間の仕事の可能性を描くことはまだできるはずだ」

そう翻意を促す人々もいた。
そのいずれも拒絶した。
かれらの指摘が間違っていたからではない。
止まない豪雨に2階まで沈められながら屋根へよじ登りここはまだ安全だと喉を枯らすにはいささか疲れ過ぎているだけだ。
それほどまでに絶望的なパラダイムシフトの話を、いまからする。

2024年末現在、
「機械翻訳は人間から仕事を奪うか」を議論する声は
以前ほど熱を帯びていないようにもみえる。
答えは出たと感じている人が増えたからだろうか。
あるいはそれは信仰の問題に移行したのかもしれない。

奪われないと信じることを選んだ人たちは
奪われないという結論から出発して根拠を数え上げる。
ある人は現在の仕事量を誇示し
またある人は機械との協働を語りながら。
ある人は世界市場の拡大を謳い
またある人はポストエディットの蔓延を呪いながら。

人間の数だけ人間があり
現実の数だけ現実がある
そのような場所を
あるいはそのとらえ難さをこそ
人は「世界」と呼ぶのだから

そうしてその反対の極では
答えの出ている問いに執着していられる人は多くない。
ある人はそれを諦めと呼び、
またある人は切替と呼び、
そうしているあいだにも
翻訳の依頼は加速度的に減り続けている。

答えを出したようにみえるのは言うまでもなく、
2023年初頭のChatGPT公開を皮切りとして世に放たれた生成AI翻訳である。

機械翻訳の進歩は多くの翻訳家の理解をとうに超えていたが
生成AI翻訳の普及は少なからぬ翻訳家に「それ」がほんとうの終わりを運んできたと実感させるに十分だった。

では、生成AIの登場で機械翻訳はついに「文学作品や漫画のような機微を問われる言葉の翻訳をも独力で精確に完遂できるほどに進化しきった」のだろうか。

むろんそんな事実はない。

自然言語処理に特化して設計され、自然さとしなやかさにおいてDeepLの仕事をも凌駕する訳文を一瞬で吐き出すChatGPTであっても、原文と付き合わせれば間違いはある。文が抜けることもままある。修飾語の勝手な省略や時制の単純化などに至っては看過できないほどの放埒ぶりだ。文体や文末形式の不統一による違和感は論を俟たず、その傾向はとりわけ日本語と英語のように構造の隔たった言語間において、長文になればなるほど顕著である。
現状の生成AI翻訳はどうみても完璧というには程遠く、依然として人間の翻訳を終わらせるだけの力をもたない。

それではなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。

ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。

「(ちょっと変だけど)これでもわかるし」
「(間違いもあったけど)だいたい合ってるし」
「(この程度の修正でなんとかなるなら)わざわざ専門家に発注しなくても」

機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。
貧困に煽られたコストカットの誘惑と
タイムパフォーマンスの強迫がそれを後押しする。
あらゆる意味において展開される貧困の前に
機械翻訳の進化はもはや副次的なファクターに過ぎない。

人間の翻訳を終わらせるのに、完璧な機械などもとより必要なかったのだ。

職人が手ずから仕込んだ豆腐の濃厚な味わいを知っているからといって
帰路にあるスーパーを素通りし3駅離れた豆腐屋へ寄り道する金と時間のある者がいまの我々のうちにどれだけあるだろう。
工場で作られた豆腐もまたそれなりに食べられることを知ってしまっているのに。
工場で作られた豆腐しか知らない人間が遠からず「それ」をこそ「豆腐」と呼び表すようになってゆくことまでも予感しているのに。

要求水準の低下は誘惑との戦いや強迫への対処といった痛みの中でぎりぎりの交渉を繰り返しながらすこしずつ進行するとはかぎらない。
責任ともリスクとも切実さとも無縁の匿名かつインスタントな空間で
「それ」は果てしなく野放図だ。

たとえばYoutubeに切り抜かれた動画のナレーション字幕がぎごちなくとも
違和感に立ち止まる人は稀であり
TikTokで流れてきた西洋人と思しき誰かの字幕が軽妙な関西弁であろうとも
そのズレは30秒という時間を「おもしろ」で刺激してのち忘れ去られる。

感じにくくなった人間が忘れやすくなるのは必然だ。
翻訳というものがかつて生身の専門家や勉強家たちの手によって一定の質を保たれていたことも思い出されなくなり、やがて知る由もなくなる。
いわんやインターネットが単なる仮想の空間を超え
肉体を伴う空間との相互作用を強めてゆく現在において
バーチャルにおける鈍化はリアルにおける鈍化を不可避的にもたらす。

人間とは、慣れてゆく生き物である。

とはいえこの世界を成り立たせるものすべての水準がネット空間に等しく均されるまでにはまだいささか時間がある(という希望を国内外の数多の選挙戦の有り様を知っていながら捨てずにいることを選択する)とすれば、
要求水準が低下の一途を辿り、たとえそれまで人間が行なっていた作業の8〜9割を機械翻訳が担うことになったとしても、責任とリスクと切実さの度合いに応じて残る1〜2割に目を通し手を下す人間の需要はいましばらく維持されるだろう。

ましてChatGPTは


「私は大量のデータからパターンを学習して、広く受け入れられる言語の使用法や表現を選ぶことに特化しています。そのため、私が生成する文章は、**一般的に「自然で理解しやすい」**という特徴がありますが、個性的なスタイルや意図的な難解さが求められる場面では、物足りなく感じられることがあります」

ある日のChatGPTとの対話より


と自ら証言しているとおり、最大公約数的な自然さ、読みやすさに配慮して訳文を生成するよう調整されている。
このことは生成AI翻訳が(少なくともChatGPTに代表される自然言語処理に特化したそれが)、情報に還元されない言表行為とその産物、すなわちひとつひとつの語の選択や文体それ自体をも価値として発せられるテクストのアイデンティティを真っ向から殺しにくる存在であることを示唆している。

では、人間の翻訳を延命させるのは、たとえば本読みたちだろうか。

大好きな作家たち、尊敬する書き手たちの筆になるものは相応の訳者に恵まれてほしい、特定の語学を能くするのみならずそこに連なる文化、歴史、社会風土についての深い造詣と高い見識をもって原著者の作風を、文体を、修辞を、語の用法を微に入り細を穿ちあますところなく伝えてほしいと心から望んでやまない読み手たちがお茶の時間にケーキを控え、晩酌のビールを発泡酒にもちかえたお金で人間の翻訳を買い支えるのだろうか。
機械が抽出した最適解を人間の自由な創作に対する冒涜として言下に否定するのだろうか。
人間が生み出した言葉は人間をとおして生まれなおさねばならぬとシュプレヒコールをあげるのだろうか。
そうして人間の人間による人間のための翻訳を、その身体性を信じ讃えるのだろうか。
いつの日も信じる力だけは最悪の未来を回避して歩みつづけるための杖なのだろうか。

わからない。
今ここにない景色に目をこらしても確かなことはなにひとつ見えない。
だから今の僕があたりを見回して確からしく思えることをふたつだけ書く。

ひとつ。
人間の仕事を愛し待ち望む「善き読者」はまだ多い。

ふたつ。
かれらはすでに、裏切られはじめている。
かれら自身が信じ支えようとしてきた者たちによって。

文学を機械にかける翻訳者は、すでに存在する。

遠き他者の言葉に宿る神聖さに目を瞠らず
織り込められた呪術性に耳を傾けず
機械に情報として処理させた文字列を整え世に送り出す訳者たちの実在は
この世にありとある善き読者たちの願いとも信仰とも等しく無縁である。

「それ」が
人間の身体から生まれ人間の身体を通って出てきたのか
人間の身体から生まれ機械の頭脳を経由して人間の身体から出てきたのか
かれらにはわかりえないのだから。

むろんこれは告発ではない。
誰にもそのような独善に及ぶ権利はない。

あるいは「それ」はすでにして僕かもしれない。
算盤を捨て電卓を使い
覚束なくなった漢字を変換に任せ
誦じていた番号すべてを携帯電話に託すその先に
「それ」はいつでもあったのだから。

もしかして
「それ」は終わりなどもたらさないのだろうか
「それ」が極まった暁には
福音がもたらされることすらあるのだろうか

人と機械のブラックボックスで増産され続ける訳文を
善き読者たちが歓待する。
いまやAIの監督者と化した翻訳者たちは
研鑽を積み修羅場を踏んで鍛えあげた刃をふるい
剪定に摘心、ときに株分けをすれば事足りる。

そんな未来が遠からず、到来するとしたら。
そんな未来がいま、ここにおいて実現するとしたら。

その刹那、ひとつのアポリアが孵化する。

もしかしてそんな「未来」は
いま、ここにおいてのみ顕現する
いたずらな現在に他ならないのではないか。

生成AIが吐き出した初期作業のゆらぎと綻びを人間が見極め
しかるべく修正を加えて完成させる。
高次の力を備えた翻訳者の存在を前提としたこのモデルは
高次の力を備えた翻訳者の喪失を想定していない。
膨大な時間と労力と資金を傾けて外国語を学ぶ人間が
苦学を重ねて留学費用を捻出し
本を読み人と交わって知性と感性を磨き上げたその先に
AIの間違い探しに明け暮れる毎日が待っているとしたら
果たして人はいつまで外国語に身を砕くだろうか。
未熟な機械の尻拭いをモチベーションとして
明日の翻訳者の母数はいつまで担保されうるだろうか。
モチベーションの低下が外国語離れを引き起こせば
高次の翻訳者は足らなくなり
高次の翻訳者が足らなくなれば
AIを監督する者が足らなくなり、
AIを監督する者が足らなくなれば
AIがAIを監督するようになり、
AIがAIを監督するようになれば
学習者の意欲はさらに低下し
学習者の意欲がさらに低下すれば
高次の翻訳者はいなくなり
高次の翻訳者がいなくなれば
そこはもう見わたすかぎりAIの世界である。

人間がAIを補完するモデルとはとりもなおさず
AIが人間を駆逐するモデルに他ならないのだろうか。
過去の蓄積に依って立つ「いま、ここ」の黄金比を臨界点として
翻訳者はすみやかに絶滅へと向かうのだろうか。

「考え過ぎだ」
「翻訳者は絶滅しない。ふるいにかけられるのだ」
「最後まで立っていた者だけが新世界の翻訳者にふさわしい」

そう言った翻訳者がいた。
むろんひとりではない。
なるほどそうかもしれない。
技術革新が死に至る病を蔵してなお前進するのは今に始まったことではない
和紙が、漆器が、友禅が消滅の危機に瀕していると噂される今このときも
工場の機械が止まることはないだろう
そうして吹き荒れる機械化の嵐で凡百な翻訳者たちが淘汰され
残った者たちが至高の翻訳者として天上人の如く君臨するのかもしれない。

そのとき、もはや流動化の望めなくなった翻訳界で
既得権益化した極小のパイにありつくべく
自らに厳しい修行を課す若くて強い魂が
はたしてどれだけ現れ出ててくれるのだろう。
それどころか徒弟制度による業界の私物化まで
過去の亡霊よろしく復活するかもしれない。
そうして結局のところ
大方の翻訳が機械に「取って代わられる」未来図は
ほとんど書き換えられないのかもしれない。

わからない。
今ここにいない誰かの未来を漠然と推し量って語ることはできない。
だから今ここにいる僕自身を省みて語れることを語る。

「取って代わられる」未来は、僕にとって過去である。
「取って代わられた」過去は、僕にとって現在である。
「取って代わられている」現在は、僕にとって英語帝国主義である。

「それ」がいつだったのか
誰も年表で指し示すことはできない。
けれど英語が「世界言語」としての覇権を不動のものとして以降
「グローバル・コミュニケーション」の名の下に
商業からアカデミズムに至るまでさまざまな分野における国際交流、
情報発信の大部分を英語が占めるようになった。

アートの世界も例外ではない。
むしろダンスや音楽をはじめとした
言語を介さずとも作品を提示し得る分野のアーティストには、
世界市場を視野に入れて積極的に英語を磨き、
企画段階から稽古、本番に至るまで全て英語で通す人たちが激増した。

そうしてフランス語やイタリア語を専門とする僕のような人間の仕事は
その多くがみるみる英語に取って代わられていった。
フランス人プロデューサーが英語でドラフトを送ってきたとき
フランス人研究者が英語で劇評を公開したとき
イタリア人演出家が英語で演出ノートを寄稿したとき
その陰でいつも僕たちが失職していた。

けれどもそんな僕たちの苦しみは
新しい帝国の言語文化に隷属する人々に届いてはいないようにみえた。
フランス語ネイティヴの依頼を断る英語翻訳者の姿は
僕の目には入らなかった
イタリア語ネイティヴの依頼を断る英語通訳者の噂は
僕の耳には届かなかった

言語とはそれ自体ひとつのシステムであり
それぞれに人間の発想や論理の礎を成す固有の体系であり
英語がどれほど豊かな言語であろうとも
英語というシステムに則って生み出される限りにおいて
その作品は英語の軛を免れない。
主語の立て方ひとつ、受動態と能動態の使い分けひとつとっても
英語的な発想に支配されてしまう。
英語のみに依存した「交流」がどれほど活発に見えても
創作はひそやかに痩せ衰えてゆく

それしきの見識を備えた人間はきっと
世界最多の分母を誇る英語話者の中にはいくらでもいて
けれど英語一強の春に踊るかれらの口から
ほんとうの多様さをめぐる問いが発せられることは多くなく
アリバイづくりのポーズ以上に昇華されることはさらに稀だった。
そうして僕たちは英語に石もて追われるようにして
日々の糧を着実にすり減らせていったのだった。

むろん英語が悪いのではない。
英語それ自体が独立した人格を備えていない以上
英語に憑いてまわる覇権と暴力のすべては
それを行使してきた人間たちの罪にして咎である。

そうして老いた帝国の言葉を話し継ぐ者として僕は
フランスがかつて数百年の長きにわたり
世界中で目も眩むほどの過ちに手を染めていたことを知っている。
山を越え海をわたり土足で分け入った先に三色旗をねじ込み
肉体と精神の尊厳を踏みにじり財産と生命を奪い取り文化と伝統を破壊して
今からおよそ百年前の地球の実に9%強にも及ぶ地表を
共和国領と呼んで憚らなかった時代を学んでいる。
フランス語が多文化主義へのパスポートの如く語られるとき
その旅券から噴き出す血飛沫の音を聴いている。
フランス語圏文学の未来が称揚されるとき
芽を摘まれてきた数多の言語にありえたはずの現在を夢想する。
人々が不可逆に喪われた音で愛し合う大陸を、傷つけ合う島々を幻視する。

むろん誰かの痛みを肩代わりしてカタルシスに耽るのは退廃である。

詩人にしてマルティニックの知事を務めたエメ・セゼールは
自分がフランス語に習熟したのは抵抗と回復のためである、と
国民議会で彼を愚弄した白人議員に向かい敢然と言い放った。

セネガル出身の作家ムブガル・サールは
フランス最高の文学賞であるゴンクールを史上最年少、
ならびにサハラ以南の出身者として初めて受賞した直後の会見で
すべてのフランス語話者に宛てて、弛まず読み、恐れず書けと激励した。

カメルーン出身のフェミナ賞作家レオノーラ・ミアノは
自身にフランス語教育を受けさせた両親について
教科書を埋め尽くし図書館の棚を満たしていた西欧の知について
パリを離れカメルーンを避けて行き着いたトーゴで今も考え続けながら
アフリカの地に人知れず層を成す女達の言葉を復権させようと試みている。

人間の数だけ人間があり
現実の数だけ現実がある
そのような場所を
あるいはそのとらえ難さをもって
「世界」と呼ぼうとするとき

僕たちは誰の現実も否定することができない。
どこまでも逃れ去ってゆく他者の生が
その遥かなる存在がまっとうする現実を
そこに与えなおした価値を
獲得しなおした道具を
否定する権利を持たない

それでも僕は痛かったのだ
たしかに僕も痛かったのだ
アルジェリアの友人と語らい
カメルーンの戯曲を翻訳し
セネガルの小説を翻訳し
カンボジアのダンサーと酒を酌み交わしながら
無数の人柱のうえに組み上げられた支配秩序を
自分もまた存えさせていることが
アイヌが和人の言葉を話し
ウチナーがヤマトの言葉を話す現在を
ずっと世界と呼んでいることが

だからもういいのかもしれない
そろそろ機械はやってくるべきなのかもしれない
そろそろ機械がやってきてくれるのかもしれない
暴力を終わらせるためではなく
暴力を終わらせるものとして
そうして僕たちのまだ知らないいくつもの
新しい暴力が粛々と始まるのかもしれない

それほどまでにやるせない夢の話を、最後にする

大航海時代の幕開けに産声を上げた資本主義が数百年の長きをかけ
嘘と搾取と弾圧と殺戮をもって植民地経済を爛熟させる過程において
時代とともに担い手を変えながら確立させてきた言語帝国主義を

21世紀に果てしなく膨張を続けるグローバル資本主義が収奪の対象を拡大し
文化の均質化や生産性-コストカット至上主義を超加速させる過程において
飛躍的な進歩を遂げた機械翻訳が相対化する

デジタル空間に横溢する情報を呑み込み肥大し続けるAIが
英語の圧倒的なデータ量を奇貨として英語自身の支配力を解体し
やがて歴代の支配者たちの言語をも次々に解体してゆく

いつの日か
1割の監督者に引導を渡した機械翻訳が
この世の言語という言語の
体系という体系を
文化という文化を
文脈という文脈を
遍く解析し尽くす時代が訪れたとしたら

この世の人間という人間が口にする
第一言語という第一言語を
地域語という地域語を
符丁という符丁を
悉く翻訳し尽くす時代が訪れたとしたら

類まれなる言葉を話す人も
ありふれた言葉を話す人も
誰もが自由に自分の言葉で発信し
誰もが自由に自分の言葉で受信し
そうして誰も誰かの言葉へと踏み込んでゆくことなく
自在なやりとりに安んじる時代が訪れたとしたら

そのとき
私の向こうに誰かいるのだろうか
そのとき
誰かの向こうに私はいるのだろうか
あるいは誰もが誰もいない場所へ向けて語ることが
ようやく手にした自由と平和の成れの果てだろうか

それとも
やむことのないこだまに倦んで
踏み出そうとする命が
いつか再び生まれるだろうか
自己で満ちた孤独の無辺を後にし
他者に満ちる差異の無窮を目指す魂が
いつか再び育つだろうか

そうして
だれかの言葉が
わたしという器を鳴らすとき

そうして
わたしの言葉が
だれかという器を揺さぶるとき

わたしのなかにわたしが興り
だれかのなかにだれかが興る

あどけない夢の話である

















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平野暁人
訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)