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1916年、雪の降る町

ピョートルはとても神経質な男で、黒縁眼鏡をいつでも触ってそのかかり具合を気にしていたが、その日ばかりは眼鏡のことなど吹き飛んでしまったようだ。
9月だった。
多くの市民にとって、この時期のサンクトペテルブルクはとても良いものだと思われた。それは、戦争が続き、国民が食糧難に陥っていても何一つ変わらなかった。その季節の美しさは紛れもなく真実だった。ネヴァ川沿いを歩いていると、決して良い香りとは言えないが、独特の記憶を揺さぶる匂いが漂う区画があり、ふと見ると一面にナナカマドの実が茂っていた。母と幼い弟と共にジャムを作ったあの頃を思い出した。
ピョートルはしばらくナナカマドを眺めていたが、やがて飽き、女を待たせていることを思い出した。
女の名はコマネチと言った。しかし、ピョートルは彼女をコマチと呼んでいた。なんでも日本人の売春婦のことをコマチと言うらしく、日本びいきだった彼女のことをピョートルらはからかってそう呼んでいた。叔父を日本人に殺されたピョートルにとって、それは当然の権利であるように思われた。
「おふたりさん、デートかい?」
コマチと合流すると、ひょっこりとネギが顔を出した。サンジャイ・ネギは近所に住むインド人だ。
「ネギ様、誤解でございますわ」とコマチ
「おれ達はただ歩いてるだけだ。ほら、あっちのほうへ」
「へえ、じゃあぼくもご一緒していいか?」
「ええ、この方と二人きりよりは良いですわ」
「ハラショーだ、畜生め。よろしくな、ネギさま」

しばらく歩くと、丸い眼鏡の男が近づいてきた。
「おう、三人揃って何してんだ」
「何って、歩いてるんだ。あっちのほうへ」
「あっちってえと、宮殿広場のほうかい?」
「たぶん、そうだ」
話しかけて来たのは心理くんだ。心理くんはサンクトペテルブルク大学で心理学を学ぶ学生で、本名はゲオルグといった。
「なんで、宮殿広場のほうへ行くんだい?」
「気になるんならついてくればいいだろう」
心理学を学ぶゲオルグには、抗いがたい誘惑だった。

歩き続けていると、季節は秋になった。町はポクロフの日で賑わっていた。

「クロンシュタットに行ったことはございます?」
「いや、残念ながら、まだだ」
「行ったほうがいいですわ。数年前に完成した"海の聖堂"は圧巻でしたわ」
「"海の聖堂"は見たことないけどよ。そこの坊主なら知り合いだぜ」
「坊主の知り合いがいたとは、驚いた」
「どうしようもなく陰気な坊主でな。雨坊主って呼ばれてる。ちょうど今の季節なら、こっちにいるはずだぜ」
ピョートル一行は、冷やかしに雨坊主の家をノックすると、雨坊主はむっとした顔で出てきた。
そして、むっとした顔のまま、一行に加わった。
サザーランド・ブリズリーもまた、この時期に一行に加わった。この男は多くを語らなかったが、どうやら前科があるようだった。ピョートルはあまり気にしていなかった。どのような者でも、坊主であれ罪人であれ、この行進の結末を見届ける権利があるように思われた。
12月になった。空は暗く、景色は冷たくなった。
心太という元日本兵の男が加わった。言葉は通じなかった。
この頃、ピョートルの日本人への憎しみは薄れていた。誰であれ、この行列に参加する権利がある。子供の頃、まだ皇太子だったニコライ2世が日本で斬りつけられた。犯人は巡査の男だった。事件の後、母は日本人が全員津田三蔵のような人間であるはずもない、と言ったのを思い出した。
ある日、心太は何かを見つけたようだった。
心太は手招きすると、一行を木の洞に案内した。そこには痩せた男がうずくまっていた。
その見た目はまるでギリシャ神話に出てくる冥府の神のようで、男をハデスと呼ぶことにした。
ハデスを手当てし、粥を飲ませた。数日すると、順調に回復したようで、歩けるようになった。ピョートルはハデスも連れて行くことにした。
そして、一行は歩き続けた。

「レーニン氏は正しいと思う」
「ゲオルグ、あんたがボリシェヴィキのシンパだってことは、最初から気づいてたぜ。なんてったって眼鏡が丸い」
「眼鏡は関係ないだろう」
「あんな政治家、すぐに消えるさ。共産主義なんて成功しないだろう。資本論はケツにでも突っ込んでな、同志ゲオルグ」

そして、歩き続けて、最後の一人が目の前に現れた。
「おい、こいつは駄目だ!」
ゲオルグが叫んだ。
「いいや、誰であれ、参加する権利がある」
「だがこいつは……"戦場のオナニスト"だ!!」

戦場のオナニストと呼ばれた男は、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは……悔やんでいる」
「悔やんでいるもんか!こいつが何をしでかして東部戦線を外されたか、知らないはずはないだろう!」
「知ってるさ。こいつは戦場で自慰行為に及んだ。仲間や敵の死体を使ってな」
「あろうことか、大尉という責任ある地位につきながらだ!奴は戦場で三日三晩オナニーに耽った!殺しては使い、殺しては使い。奴は戦争を快感に変える変態だ!どうしようもない怪物だ!」
「それでも、参加する権利がある」
「だったら俺は抜けるぜ」
「ハデス」
「承知シタ」
ハデスは心理を縛り上げた。
「誰であれ、行進に参加する権利がある」
とピョートルは言った。

年が明け、世界は寝ぼけ眼のまま1917年を迎え、すぐに3月になった。やがて町では革命が起きたが、ピョートルにとっては、もはやどうでもよいことだった。
少し前、サンクトペテルブルグの街には、白い雪が降り積もっていた。雪はエカテリーナの宮殿も、エジプト橋に鎮座するスフィンクスも、血の上の救世主教会のクーポルも、代用アルコールがツンと臭う路上生活者のテントまですべて平等に染め上げたけれど、それでも、ピョートルの心ほど真っ白に染め上げることは出来なかった。
これこそがピョートルの求めていた答えだった。
ピョートルは、その雪景色にいたく感動し、自らの新たな名を決めた。
その手には宮殿広場で撮影した一枚の写真が握られていた。写っている人物の前にはそれぞれのサインが入っていたが、ピョートルの名はいまだ空白だった。
ピョートルはペンを取り、名を書いた。









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