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寂しさと好奇心とデザイン

最近「さみしさ」について考えている

いきなり何だと言う感じでははあるが、自分のデザイナーとしての探求テーマについて少し見直すタイミングに来ており、考えを思うままアウトプットしてみることにした。やや支離滅裂でポエムっぽくなると思う

プロジェクトのデザインに関わる仕事を多くしていると、どのようなものを作るか、という事だけでなく、その過程がどのようなものかがとても重要になる。これからますますそれが重要になってくると個人的には思っている

「ものをつくる過程」と言葉でいうのは簡単だけど、それは「工程」の事だけではないだろう。その過程の中で人がどのような「経験」をするか、ということが大切だと思っている

不確実な状況(ものをつくるプロセスは大体がそういうものだ)では「怒り」「憤り」「不安」「焦り」のような感情によく直面する。それは他者の感情だったり、自分の感情だったりする

どうしたらいいかわからない、こんなこと言ったらバカだと思われるだろうか、自分がやるべき事ではない、上手くいくのだろうか、上手くいっている人がうらやましい、などなど、プロジェクトに関わる人の心の中はさまざまな感情が生まれては消えていく

そういった感情の大元には「さみしさ」があると考えている

自分の不安な気持ちや焦りが周りの人にわかってもらえないという状況が人を孤独にして、創造性を萎縮させてしまう。厄介なのはそういうさみしさは純粋な感情すぎて、自分で気づく事がとても難しいということだと思う

課題解決であれ、価値創造であれ、なにかを成し遂げる過程が良いものになるために好奇心が重要だと思っている。人が好奇心を持ちながら進められるプロジェクトは、それが成功するにしろ失敗に終わるにしろ良い経験として魅力的な物語を生み出すと思う

その好奇心を生み出す源泉もまた「さみしさ」なんじゃないかと最近思っている

私はデザインの仕事の中で、お互いが考えていることをテーブルの上に並べ、その関係性をつまびらかにしていく「情報の可視化」をしている時間が一番好きだ

「この観点で考えてみたら良いのでは?」「この人に話を聞いてみたら面白そう」「今考えている事と以前考えていた事がつながりそう」等、その過程の中で好奇心が尽きない

その好奇心の根底に「さみしさ」があることに最近気がついた

人がお互いに考えていることをいくらテーブルに出しても、相手の考えている事やその背景にある価値観を分かりきる事はないく、対象についても、どんなに情報を構造化し整理しても、全てを理解しきる事はできない

それがさみしい。さみしいからこそ、時間と手間暇かけて試行錯誤しながら向き合っていく

わかりきることはないから、もっと知りたいし、もっと知り合いたい。そういった寂しさと好奇心のつながりがある

前むきな課題解決や相互理解というよりは、もうすこし遠慮がちで時間がかかるような過程が好きで、強い繋がりでもいいし、弱いけれど長く続くつながりでもいい。つながらないことを選ぶ事でもいいかもしれない

そういう寂しさに向き合いながら、それを解消するでもなく、わかりあえない同士で好奇心を育て合うひと時に自分は関わりたいのかもしれないと思いはじめている

その場にいる人たちが少しづつ、その人たちなりのつながりをお互いに見出していって、その人たちなりのやり方をつくり、他でもない自分たちの物語を生み出す過程をつくれたら良い

別にそれが革新的で感動的なものである必要はなくて、大切な経験になれば嬉しい

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