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「何しに社会に出てきたの?」(短編小説)

 一年程前のことだ。私はバイトを辞めた。辞めた理由は非常にシンプルで、人間関係に因るトラブルだ。私は店長ともパートのおばさんとも、相容れなかった。
 店長は会社の常識こそがこの世の教典だと信じて疑わない、柔軟性に欠ける人間だった。始業時間の十分前に出勤することを強要してきた割には、終業時間はガバガバで当たり前のように残業させられた。
 パートのおばさんはもっと論外だ。いつも不機嫌で周りの人間にご機嫌取りをさせていた。そして、おばさんにごまをすらない人間は徹底的に無視をし、仕事でもフォローをしなかった。
 私は当時、店長やパートのおばさんに対して、ずっと「こいつら人間か?」と嫌悪感を持って観察していた。
 バイトをはじめて一ヶ月ほど経ったときだった。私がそのおばさんのターゲットになった。
 「ちょっと!あなた‥あなた名前何ていったっけ?」
 「高橋ですけど‥」
 私が返事すると、おばさんは「よくある名前ね。逆に覚えづらいのよ」と小言を、私に聞こえるような声量で呟いた。
 「あなた、これ値札が二つ付いてるのわかるわよね?」
 おばさんは雑貨のエコバッグに貼り付いた二つのバーコードを指して、何故だか怒りながら言ってきた。
 「ああ、そうですね。貼り替えて店頭に並べておきます」
 私は出来るだけ会話が長引かないように早急に話題を引き取ろうとした。しかし、おばさんは私の意図を読んでいるのかいないのか、私の意に反する行動に出た。
 「あなた、これがわからなかったの?」
 その声色はどういうわけか、怒りの成分が含まれているような気がした。
 「えっと‥」
 「これ二つ付いてるわよね?見ればわかるわよね?」
 「はぁ‥」
 「だって、他の商品見て、これ、はい」
 おばさんは店頭に並んでる別の商品を手に取って、私に見せてきた。私はそれを無言で眺めた。
 「ねっ?普通、こうなるの。値札って一つじゃない?見たことある?例えば、あなた買い物してて『これ欲しいなー』って見てて、値札二つ付いてることってないでしょ?だって、値札二つ付いてたらお客さんが混乱するじゃない?だから、これおかしいのよ。だからね‥」
 あれ?この時間って何の時間だ?
 私、説教されてる?
 私の脳内でこの状況に対応しなければ、と不快感を感じる自分と俯瞰して状況を眺める冷静な自分の存在を認識した。
 とにかく、このままではらちがあかないので、おばさんに遠慮しつつ声を掛けることにした。
 「あの、大丈夫です。わかりましたよ」
 私は神経を遣いながら返事をした。
 そうすると、おばさんに違うモードの電源が入るのがわかった。
 「何をわかってるっていうんですか!わかってたらこんなことになってないでしょ!これはあなたのミスですよ!ほんとにわかってるの!」
 怒髪天を衝くとはこのことかというくらい、おばさんがキレだした。
 私はあまりの剣幕に呆気に取られて何も言えなくなる。ただ、珍獣を観察するような感覚になる。
 「あなたそんなのじゃ社会で通用しないわよ!」
 その一言を言い残しておばさんは仕事に戻ったのだが、その翌日から私へのおばさんによる揚げ足取りがはじまったので、すぐに私はそのバイトを辞めたのだった。

 そして、私は現在、別の仕事に就いている。今日は私が一年前に退職した店舗が入っているショッピングモールに買い物に来ていた。
 そこでふと思い立った。あのパートのおばさんはまだ働いているのだろうか、と。好奇心と復讐心が混じった気持ちになる。私は何かに突き動かされるように、前の職場に足を運んだ。
 店舗の中に入った瞬間、奥まったところにあるレジにあのおばさんが肘をついて店長と談笑しているのが見えた。
 その光景を目の当たりにした瞬間、ただただ「言ってやろう」と思った。怒りでも復讐心でもなく、冷めた感情に私は動かされた。
 「こんにちわ」
 私の感情のない挨拶に、おばさんが「はぁい?」と愛想良く振り向いた。
 「私のこと覚えてますか?」
 私の問い掛けにおばさんは愛想の良さそうな表情を崩さず、「あら~」と曖昧な反応を示した。隣に立つ店長が『私には挨拶はないのか?』という視線を向けてきたが無視した。
 「一年前までここに勤めていた者です。一年前、あなたに感情的にブチギレられたので、不当な恫喝について謝罪してもらおうと思って、とりあえず謝ってくれます?」
 私が淡々と言うと、おばさんはシワの入った気色悪い笑みを崩さず言ってきた。
 「何を言ってるのかしら?ねえ?」とおばさんは隣の店長に話題を投げた。
 「えっと、高橋さん‥「あなたには話てません」
 私はすぐさま店長の言葉を遮った。
 「おばさん、あなたに話してんるんですよ。私は。店長に話を振って逃げないでくれます?」
 ”逃げる”という言葉におばさんが反応したのがわかった。愛想笑いがみるみる崩れていく。
 「あれはあなたがミスしたから悪いんじゃない。そう言われることをしたんだから。だってミスはミスでしょ?それを今更こうやって、こんないきなり訪ねてきて、言ってくるなんてあなた‥」
 「ああー、話長いです。謝るんですか?謝らないんですか?どうするんですか?」
 私はこのおばさんの『責任を他者に押し付ける』『自分を正当化する』という戦略がわかっていたので、真っ直ぐに聞いた。
 「いや‥そんなの‥ねえ?」
 おばさんが再び店長に助けを求めた。
 私はそれを目の当たりにした瞬間、やっぱりこいつクズなんだ、と思って、どうでもよくなった。
 「あっじゃあもういいです。えー、店長。まあ、頑張ってください。この世には自分が悪いことをしても謝れないような、ゴミみたいな人間がいますけど、ゴミだけに異臭が漂う職場で頑張ってください。ゴミみたいにゴミ箱に捨てられたらいいんですけどね。だから、捨てられない分、ゴミよりも迷惑ですよね」
 私は淡々と言い終えると、そのまま二人の反応を待たずに帰ろうとした。しかし、あと一言だけ言っておきたくなって立ち止まる。
 「そういうゴミみたいな人間って、何しに社会に出てきてんるんでしょうね?」
 私は、その言葉を二人に向けて言った。しかし、二人には何も響いていないように、私には見受けられた。
 私はそれを皮切りに店舗の外に向けて足を向けた。
 私は自分の内側から虚しさが広がっていくのを感じた。パワハラに対して言い返したり、やり返してもスッキリすることはないんだ。それが残念なことだと思った。だから、職場で頭のおかしいパートのおばさんに当たってしまったら、本当に”それだけ”なのだ。
 店舗の外に出て私は歩き出す。歩きながら見渡すと、モール内の様々な従業員の様子が目に入ってきた。
 下を向いて悲壮感が身体から溢れ出ている清掃員。表情は笑っているが感情が見えないアパレル店員。冷たそうな店長の叱責に萎縮している新人バイトの女の子。和気藹々としているアイスクリーム屋さんの大学生たち。
 働くって、人間なんだ。
 「いらっしゃいませー」
 私に向かって声を掛けてくれた店員さんが愛想良く会釈してくれる。私もそれに倣って会釈を返す。私は虚しくなった気持ちを奮い立たせ、歩き出した。


終わり。



あとがき。
人の粗を探すことに懸命な人が苦手です。そういう人が職場にいて逃げられない状況が最も嫌いです。
 
 
 

 

 
 
 

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