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[短編小説]屋上で同期とコーヒーを飲める時間。

 腕時計を確認すると時刻は午後八時を回っていた。デスク作業で凝り固まった背中が痛い。疲労感を覚えながら、俺は会社の屋上に置かれたベンチに腰掛け、缶コーヒー片手に、建物が立ち並ぶ街の夜景を脱力して眺める。視界の左には高くそびえる小綺麗なマンションがあり、そのマンションの陰になっている右手には小汚いアパートが建っている。
 俺はこの光景を見るたびに、「資本主義ってえげつねえな」と辟易するし、「もう少し頑張って働きゃなきゃな」と尻を叩かれているような気持ちにもなる。それらが果たして健全な精神かどうかは置いといて、だが。
 目の前の建物の部屋は洗濯物が残っていたり、カーテンが閉じられていたりと種々様々だが、その大体七割くらいの部屋に明かりが灯っていて、人の営みがあることは確認できる。今日はサッカーの代表戦があったはずだ。みんな、晩飯を喰いながら視聴して、SNSに上から目線の感想でも呟いて楽しむのだろう、と無関心に近い想像が浮かび、恨めしい気持ちになる。
 俺は今日も残業ですよ。そして、家で待ってくれている人も居ませんよ。
 「‥クソが」 自然と言葉が漏れた。
 「言葉、汚ねーな」
 同僚の武元が俺の悪態にツッコミを入れながら、2人分くらいの距離を空けて、同じベンチに腰掛けてきた。「ういー」といった学生のノリと共に、武元が手に持っている缶コーヒーを掲げてくる。俺はそれに「おいー」と言って、自分の缶コーヒーを合わせた。空間に、カンッ、と缶と缶がぶつかる音が小さく響いた。
 「終わった?」
 「まだ。今日も残業。明日も多分残業。今回も納期ギリだろうな」
 「あのクソ社長、何も考えずに発注受けやがって。もう殺すしかないな」
 俺の発する物騒な言葉に、武元は曖昧に笑った。
 「そうしなかったら、冗談抜きで俺達が先に死ぬかもな」
 武元が言った冗談が冗談に聞こえなくて、俺は脱力するように大きく息を吐いた。
 俺が就職してみて一番驚いたことは、令和にも関わらず、ブラックな労働環境は未だに存在しているということだった。どの企業も法令遵守なんて名ばかりで、パワハラは横行されているし、くだらない上下関係を重んじる風潮は根強く残っていた。下らない社内のルールや馬鹿な上司のご機嫌伺いを強いられる度に、俺は疲弊し、退職し、転職を繰り返した。
 「次はまともな企業に当たるだろう」。そう信じて。
 しかし、現実は甘くなかった。
 どういうわけか、嫌な人間というものは、叩けど、場所を変えても、うじ虫のようにわいてくることに気が付いた。奴らは他人の揚げ足を取り、人を攻撃し、誰かの手柄や成果を横取りし、常に自分の存在価値を確かめたがっていた。
 この世には仕事をしない奴がたくさんいる。それを痛いほど思い知った。
 そして、今、俺は不満を抱えながらも、この会社で生活費を稼ぐためだけに働いている。自分の仕事にはこれといってやりがいは感じていない。しかし、それが悪いことだとは思わない。ただ、やはり今でも、社会人特有の人間関における陰湿さや、わけのわからないルールを遵守させられることには、辟易している。
 そんな俺が、武元と出会って、意気投合したのが今から二ヶ月前。夏の暑さがピークを迎えた八月のお盆の時だった。ネットニュースの見出しが帰省ラッシュの話題で賑わっていた頃、俺たちは他の企業が休みを取っていることの肩代わりをするように、働いていた時だった。


 事の発端は部長が俺にくだらないことで言い掛かりをつけてきたことだった。
 今朝、俺が出勤して、自分の席に着くなり、部長にいきなり小言を言われた。
 「前から言おうと思ってたんだけど、井上、お前、来るの遅くないか?」 部長の声には、はっきりとお盆に働かされることへのストレスが滲んでいた。
 俺は視線を上げて壁に掛かっている時計を見た。時刻は『8:51』だった。うちの会社の始業時間は『AM 9:00』なので、俺に何ら落ち度はないように思われる。ただ、俺も馬鹿じゃない。部長の意図が理解できない俺じゃなかった。
 つまり、こういうおじさん上司は、他人に説教することで自分の価値を確かめたい生き物なのだ。
 「そうですか?わかりましたー」と、俺は内心、くだらない、と思いながら返事した。しかし、部長は俺のことなんかお構いなしに「社会人として‥」とか「常識的に‥」とかネチネチと続けて言ってきた。
 俺はパソコンを起動させつつ、デスクトップの右下に視線を移すと、『8:56』と表示されている。始業時間までまだ4分あった。
 それでも部長は俺への小言を止めない。
 つーか、これ何の時間? 鬱陶しい、と思った。
 「あの、もう大丈夫ですよ。わかりましたから」
 さっさと話を切り上げて、自分の仕事に取り掛かりたい。俺は憤りを抑えながらも、できるだけ優しい声色を意識して部長を制した。
 しかし、その瞬間だった。
 「何が『わかった』ってんだ!!わかってないからこっちは言ってやってんだぞ!!お前は時間に遅れてるんだ!!口答えするな!!」
 部長の怒号がフロア全体に響き渡った。
 俺は、朝一番だぞ?こいつ、マジか?と思うと同時に、あまりの理不尽さにキレて言い返しそうになっていた。
 その時だった。
 「部長。朝から大きな声を出さないでください。うるさいです」
 武元の低く男らしい声が職場に、やけにはっきりと響いた。
 武元のその言葉に、部長は顔を真っ赤にしながら「っ‥何だお前も反抗的な態度を取るのか?!そもそも、こいつが遅れて来るのが悪いんだろう!どうしてお前ら若い連中は‥」と自分をさらに正当化しようと喋りはじめる。
 すると俺の向かいのデスクの武元が立ち上がった。立ち上がった武元は180cm台後半くらいの背丈があって威圧感ある。猫背で下っ腹が出ている部長が気圧されているのが見て取れた。
 「俺は事実を言ってるだけですよ。俺は反抗してないし、部長はうるさいし、職場の雰囲気を悪くしてる。それだけです」
 武元は普段口数が少なくて黙々と仕事をするタイプだった。だから、これほど自分の意見をはっきり言う奴とは思わなくて、部長だけでなく、俺も気圧されていた。
 「いや、それでもだな‥」
 「あと、井上は遅れてませんよ。始業時間は9:00です。まだ2分あります」
 武元が堂々と意見していることに、俺は素直に尊敬の念を抱いた。事勿れ主義の社会人は多い。同僚が上司に説教されていても、見て見ぬフリをする、それが俺が見てきた社会人というものだ。かくいう俺も、自分が部外者なら、わざわざ火中の栗を拾いに行くようなことはしない。
 俺だけでなく周囲の人間も二人のやり取りに釘付けになってしまっていた。
 「はい、おはようさん」
 そんな気まずい空気を引き裂いたのは、遅れてやってきた社長の呑気な挨拶だった。
 社長は社員デスクの間を通り抜けて、社長室へ入っていった。
 フロアにいる全員の視線が部長に向かっているのがわかる。
 部長は「まあ‥これからは気をつけろよ」と場を取り繕うように、俺と武元に言ってきた。
 しかし、これで一件落着、とはならなかった。
 武元がここにいる全員の意見を代弁してくれたからだった。
 「部長。社長の遅刻には注意をしないんですか?」
 部長は社長がいるから怒鳴らなかったが、苦虫を噛み潰した表情で、机を膝で蹴り上げていた。
 その日から俺は武元と一緒にいることが増えだした。

 
 屋上から見下ろしているアパートから若い男たちの「うぇーい!」というはしゃいだ声が小さく聞こえてきた。概ね大学生が集まってサッカー観戦しているのだろう。どこにでもうるさい奴はいるよな、と思った。
 「武元さ、あの時、何で俺のこと助けてくれたの?」
 俺は二か月前のことを思い出したついでに聞いてみた。すると、武元は少し思案した後、覚えがない、といったかんじで応えた。
 「”助ける”?俺が?おまえを?いつ?」
 「お前マジで言ってんの?ほら、お盆の時、俺が部長に始業時間のことで絡まれている時、武元、助けてくれたじゃん?」
 「‥ああ、あれか」
 武元は手元にある缶コーヒーをゆっくり口に運んで、ひと呼吸おいた。
 「俺は別に井上を助けたかったわけじゃない。もちろんその結果、井上が助かったと思うならそれはそれでかまわないけど、ただ‥」
 「”ただ”?」
 「ただ俺は、自分が正しいと思うことを言っただけだ」
 ”正しいと思うことを言っただけ”。
 俺は武元の言葉を喉の奥で転がした。大人になるとそれがどれほど困難なのかわかっているのだろうか。
 「お前‥なんかすげーな」
 「知ってる。俺ってすげーだろ?」
 武元のらしくない冗談に、俺は一瞬面食らって、それから少し笑った。
 人生には極まれにこういうことがある。面白い人間との出会いだ。
 しかし、良い出会いというのは、四葉のクローバーを見つけるみたいに難しい。
 人は度々、”人間性”というものを好意的に捉えようとするが、俺はそれが好きじゃない。無理やり『人の出会い』みたいなものを肯定しようとする奴は、他人にもそれを強要するからだ。そいつはその時点で、良い人間とは思えない。
 どれほど聞こえが良いことを言っても、やはり人間は『良い人間』か『クズ』かに区分される、と俺は思う。
 良い人間はいる。しかし、ごくわずかだ。
 世の中の多くの人が遭遇するのはクズだ。人は平気で嘘をつくし、虚勢を張るし、裏切るし、他人を攻撃する。俺はそういうのを『人間らしい』と愛することはできないし、愛したいとも思わない。
 それでも、ふっと思う。それがわかっていて、どうして働くのだろうか?と。
 それは、きっと‥‥。
 向かいのマンションやアパートから、ワッ!といった人の熱気のようなものが伝わってきた。何となく、人の気、みたいなものが膨らんで弾けるのがわかった。
 「またゴール、決まったっぽいな」
 武元が言った。武元も同じことを感じ取っていたみたいだ。
 「武元ってサッカー好きなの?」
 俺は何となく質問する。
 「どっちでも。ただ、小学生の時やってた。だけど、俺って小学五年の時点で170cmくらいあって、周りの大人がチームメイトに『武元に大きく蹴れ』ってしか言わなくなって、辞めた」
 「センタリング作戦か‥」
 俺は武元に向かってひたすら上げられるセンタリングを想像した。小学生の頭の上を何度も通過するサッカーボール。やる気を失くしていく小学生たち。そして、それに気付いてしまう武元。
 「なんかモヤモヤするな」俺は頭の中で思ったことが、自然と口から出ていた。
 「ああ。わかってくれるか?助かるよ」
 武元は笑うでもなく、愚痴っぽくいうのでもなく、本当に淡々と言う。
 なるほど。こいつも傷を負ってきた人間なんだ。そして、強くなった人間なんだな。
 俺は武元に自分の飲みかけの缶コーヒーを差し出した。武元はそんな俺に怪訝そうな顔を浮かべる。
 「ほら、乾杯だよ」
 「乾杯って何に?」
 「武元の過去の”がんばり”にだよ」
 カンッ。
 俺と武元の缶が合わさる。
 俺達が出した小さな音は、夜の街の空気の中に一瞬で溶けていった。


終わり。

 
 

 
 
 

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