息をするように本を読む109〜チャンドラー「ロング・グッドバイ」村上春樹訳〜
ハードボイルド。
固ゆで玉子、ではもちろんなく、この場合、小説のジャンルのひとつを指す。
ハードボイルド小説についてのあれこれはネットや本で調べるといろいろ出てくるようだが、ここでは今までに私が見聞きした事柄と多少の知識を基にして、私が思うハードボイルドの話を書こうと思う。
あくまでも個人的見解なので、あまりにズレてると思われる場合のみ、優しくご指摘いただきたい。
ハードボイルドとは、どちらかと云えば不適切でコンプラ的に少々問題のあるストーリーを、客観的且つ写実的に、批判を加えず乾いたタッチで描写した小説、を指す。
確かに、明るく健康的なハードボイルド、というのは、あまり想像できない。
舞台はとある都会の片隅。登場人物は刑事とか探偵とか、あるいは反社会勢力のメンバーとか。ミステリーやサスペンス、バイオレンス小説の体をとっていることが多い。
ただ、至極当たり前なのだけど、そういういかにもハードボイルドっぽい題材をとったからといって、ハードボイルドな小説になるわけではない。
ハードボイルドに必要なのは、舞台や設定ももちろんだが、その世界の描き方だ。
ハードボイルドでは、登場人物たちの心の動きを懇切丁寧に説明することをしない。
それが上記にある「客観的」「写実的」ということに通じるのだろう。なぜなら、登場人物たちの思いというのは、たといそれが主人公であったとしてもその本人たちだけのものであり、余人にはわからない「主観的」な事柄だから。
では、読者はどうやって登場人物たちの心の動きを知るのか。
まずはもちろん、登場人物の話す言葉。ただ、往々にして彼らは嘘をつくこともあるので、そこは察するしかない。
それと同様に重要なのは、詳細に描写されるその人物の行動や表情、些細な何げない、たとえば、グラスを口に運び、それを置く一連の動作、音、目の動き、指先の震え、そう言った細かいディテール。
それから舞台装置となる情景。たとえば、部屋の仄暗い灯り、窓の外で揺れる庭木の細い枝、遠くで聞こえる警笛、唐突に濃く香る香水。
細かく描写されるそんな景色たちが、登場人物の気持ちをより鮮明に象徴する。
同じことが映画やドラマに言える。
映像作品の中でナレーションで長々と登場人物の思いを述べられたり、独白が延々と続いたりすると興醒めだ。
視聴者は、俳優のセリフ以外の何気ない表情や言動、あるいはカメラがとらえる風景や何かのちょっとした小道具から、彼らの心を推し量っていく。
ハードボイルド小説はそれに似ているのではないか。
前置きがものすごく長くなってしまった。
「ロング・グッドバイ」は、アメリカの作家レイモンド・チャンドラー氏によって1953年に発表された、大人気シリーズのフィリップ・マーロウの物語の6作目。
読んだことがない人でも、有名なセリフ「ギムレットには早すぎるね」は、どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。
主人公のフィリップ・マーロウは、この作品では40過ぎ?というところか。
ロスアンゼルスの古い借家に住み、少し離れたダウンタウンで私立探偵の事務所を構えている。元々は検事局の捜査官だったが上司と衝突して退職し、現在の仕事をしている。
そのせいかどうか、警察官と悶着になることが多い。別に公明正大な正義漢ではないが、これ以上は譲れないという自分なりの主義はしっかり持っている。それが社会規範に合致するかどうかはともかくとして。
チェスとコーヒーと酒と、金髪美女が好き。拳銃は持ってはいるが、普段は携帯していない。
チャンドラー氏のマーロウ・シリーズの中で特にこの「ロング・グッドバイ」は、ハードボイルド好きにとってまさにバイブルのような存在らしく、オマージュというのか、明らかに影響を受けたと思われる作品も多々ある。
さっきまで私が(大して詳しくもないくせに偉そうに)つらつらと書いてきたハードボイルド的要素が、まさにこの作品には溢れている。
物語は、マーロウの「私」語りで進む。
彼の目で切り取られた光景を読者も辿りながらストーリーは進んでいく。
マーロウが見たもの聞いたもの、訪れる場所、出会う人物。それに対する彼の考察や評価は、ちょっと細か過ぎるかもしれないが、辛辣で絶妙に的確なのでクスッと笑ってしまうこともある。
だが、それに対して彼が何を思っているのかは、なかなか見えない。
それはマーロウだけではなく、他の登場人物たちも同様だ。
人を喰ったようなどうでもいいやり取りや人を煙に巻く言葉は、しょっちゅう口にするのに、自身の正直な感情をストレートに露わにしない。
なので、提示されるさまざまな材料から読者自身が彼らの気持ちを推察していくことになる。
それは、後々ストーリーにはっきり関わると思われる重要な記述から、だけではない。
およそ物語の筋に関係ないような、たとえば、登場人物同士のまるで謎の掛け合いのような意味があるのかないのかよくわからない会話、目的地に向かう途中の街の風景のやたら詳細な描写、金髪美女についての必要以上に細かい考察、あるいは出かけた先のバーで何を食べ何を飲んだかのどうでもいいような話など。
そこからマーロウを含めたキャラクターたちの情動や気質、人生や他者への向き合い方や立ち位置、さらには物語中の時代や場所が醸す空気や匂いまでが見えてきて、読み手はそれを共有することができる。
それによってハードボイルド好きたちは、どんどん主人公や彼らの生きる世界に共感し同化していくのかもしれない、などと思ったりする。その一方で、一部の読者には回りくどく感じられるかもしれない、とも思う。
実をいうと、私はこういうのが好きだ。
回りくどくいのが、というのではない。
何もかもを言葉で明確に説明し過ぎないことが、だ。
優しい文章で一から十までわかりやすく説明されるというのは、逆に少し疲れることがある。
うまく言えないが、何というか、物語の中の主人公の気持ちや思いが逐一丁寧に描かれていると、そこにどうしても著者自身の主張が強く立ち上がってくる気がして、それがあまりに溢れた作品は、私には少々重いときがあるのだ。
人の思いを全て掬い上げ、それを代弁し、寄り添う物語ももちろん素敵だが、ときには読者を突き放すような、でも決して無味乾燥ではない物語、冷淡で醒めた、でも深い洞察に満ちた物語が、私は好きだ。
ここまで書いて、今回、全くこの作品のストーリーについての話はしていないことに気づいた。
……まあ、それもいいかな。
この作品が描く世界、この空気を味わうにはやはり実際に読まなければなるまい。
ここで中身をつらつらと説明するのは、野暮、というものだろう。
この本は、コーヒーを手元に置いてどっぷり浸って読むのもいいし、日頃のちょっとした隙間時間にパララッとめくってみても楽しい。
ただパラパラと読むうち、気づいたら用事はやりかけなのに日が暮れているということになるかもだから、そこはご用心。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
もう先一昨年になるが、noteで若竹七海さんの葉村晶シリーズの感想文を投稿したことがある。
この投稿でも書いているが、私がハードボイルドってこういうことか、と明確に思ったのはこの葉村晶シリーズが最初だった。
もし、マーロウと葉村晶が時空を超えて出会うことができたら、きっといいバディになったのではないか、などと妄想してしまう。
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