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島川修一のこれまでの人生と今後【インタビュー】

こんにちは。

福岡県久留米市にある就労継続支援A型事業所、TANOSHIKA CREATIVEでWebライターをしておりますpiasu(ピアス)です。

TANOSHIKAとは?

福岡県久留米市にある就労継続支援A型事業所です。株式会社SANCYOが運営しています。生きづらさや働きづらさのない世の中を創る」というビジョンを掲げております。ITのCREATIVE、農業のFARM、アクセサリー販売などをしているPLUSがあります。メンバー(利用者)も支援員も募集中です!!

↓TANOSHIKAのホームページ↓
TANOSHIKA

今回は私のライティングをいつも採点してくれている、TANOSHIKA CREATIVEのライター部署のリーダーでもある、TANOSHIKA CREATIVEの職業指導員 島川修一氏にお願いして、インタビューしました。

そこで、興味深いお話を聞くことができました。

TANOSHIKAに興味のある方、島川修一氏に興味のある方は、ぜひ最後までご覧ください。

島川修一氏のプロフィール

就労継続支援A型事業所TANOSHIKA CREATIVE職業指導員、TANOSHIKAが運営する「AKARI」編集長。ライター部署のリーダー。卓球が得意。起業に向け頑張っている。

Twitter

「今」に繋がる、『文章』に関わった少年・青年時代

ーー島川さんはどんな少年時代、青年時代を過ごされましたか?

山口で生まれて、ほとんどの期間は広島で育ちました。
昔から本や漫画など、想像の世界が好きな人間でした。
中2からは自分でも小説を書くようになって、小説家を目指してました。
大学では文芸サークルに入って、短編小説を書いていました。
編集長をしていたので、人の作品を校正・編集する機会がありました。その時の経験が今もAKARIの記事の編集など、TANOSHIKIAでの仕事でも活きてきています。
また、小説の書き方を勉強できるゼミに入って、卒論では4万字の小説を書きました。
その時は一番いい評価をもらって、皆さんの前でも概要の発表もさせてもらいました。

社会に出てから、味わった挫折

ーーその後、どんな日々を過ごされましたか?

学生時代はこんな感じで自分の好きなことや得意なことだけに向き合えていたのですが、社会人になって苦手な部分にも向き合わないといけなくなりました。

卒業後は国語の教員として地元の中学や高等学校、小学校でも勤務しました。
その中で特別支援学級の担任や、児童相談所で勉強を教える仕事もしました。
公立学校の正教員なら普通3年周期位で異動するのですが、15校という、普通の教員が30年かけて回るような校数を9年間で回るという、非常にハードな教員生活でした。
気が付いたら、高校3年生から小学1年生まで教えていましたね。

元々口下手で人見知りなところがあるので、教育実習の時には指導教諭の先生に「今まで教えてきた中で一番下手」だと言われたくらい、実際はあまり向いていない仕事でした。

まず自分は緊張するとどもりが出たり、台本を用意しないと順序よく話せないのですが、
教師って教科書はあっても台本は無いので、基本教壇に立ったらフリートークなんです。
なので、事前に必死に準備するようになりました。
また生徒って、怖い先生か面白い先生の話すことだけはよく聞いてくれるんですよ。
時々生徒に面白い話を求められることがあるんですが、それも最初うまくできなくて、落語やお笑い番組で話し方を勉強したりしました。

字も元々汚くて、先生になるに当たってチョークで黒板に字を書く練習をさんざんしたので、今はある程度読める字を書けますが、ボールペン字の講座も受けたくらいです。

昔の自分がメンバーさんとして目の前にいたら、もっと向いている職を探すことを勧めますが、結果論としてはこの選択をしたことが、自分を一番人間的に成長させました。
 
苦手なことに向き合った結果、字はある程度読める字になって、以前よりもスムーズに話せるようになりました。今でも長い話は台本を用意しないとできませんが、生徒にするための面白い話も何パターンもあります。

人を育てる仕事をしていましたが、結果的に一番育ててもらったのは自分なんです。

自分も発達障害かもしれない。

その後、島川さんはとある出来事から、教員という積み上げてきたキャリアを置いて、遠い久留米、TANOSHIKAへやってきます。

ーーなぜ、積み上げてきたキャリアを投げ打ってまで、ここTANOSHIKAにやってきたのでしょうか。

担任をしていた特別支援学級の生徒と、特別支援学校の高等部の学校説明会に行った際に、卒業生が就職につながった数は片手で数えられるほどしか居ませんでした。その少なさに愕然としたのが動機の一つです。

現在は3割程度は就職する様ですが、進学率はかなり低く、A型やB型など就労支援施設や自立訓練施設に入る人が多いです。中には「家事手伝い」となっているケースもありました。

その時初めて、学校を卒業してからの彼らに待ち構えている現実の厳しさを知り、教師という立場で自分ができることの限界も感じました。
彼らの人生は卒業して僕たちの手を離れてからの方が圧倒的に長いのです。

同じ日の研修で、A型事業所という存在も初めて知り、興味を引かれました。
後に自分がそこに飛び込むことになります。

次に、自分が発達障害ではないかと気が付いたことです。ある時ネットの発達障害のチェックを試しにやってみたら、かなり当てはまっていました。

診断を正式に受けた訳ではないですが、空気が読めなかったり、人の気持ちに鈍感だったり、言葉の行間が読めなかったり、後回し癖など、発達障害の特性が自分には明らかにあると思います。昔から他の人と比べて変わっていると自覚していましたが、学生時代はあまり問題になりませんでした。ただ、働く上ではその特性に悩まされていました。これが自分の生きづらさの正体に気が付いた瞬間でした。 

このように、僕自身が生きづらさ・働きづらさを抱えた人間なんです。
だから、僕からすれば、この会社のビジョンの実現は、他人事ではなく自分事なのです。

誰だっていつ病気になるか分かりませんし、まだ未病という段階にいるだけで、同じ病垂の中にいるのです。

遠い地、TANOSHIKAとの出会い

ーーTANOSHIKAに入ったきっかけってなんでしょうか。どういう経緯で、TANOSHIKAに入られたんでしょうか。

TANOSHIKAを知ったのは、クラウドファンディングでPCを使った業務を行う事業所を創るプロジェクトを2018年に知ったからです。この時はまだ全国的にも所謂作業所っぽい所ばかりで、珍しさもあって、単に応援したくて5,000円支援をしました。

島川さんとTANOSHIKAの出会いのきっかけとなったクラウドファンディング↓

その時の繋がりで嘉村社長にTwitterのDMにダメ元で頼んで1週間ほどできて半年ばかりのCREATIVEに研修に行かせてもらいました。

その時にAKARI(TANOSHIKAが運営するメディア)の記事の編集のお手伝いや、FARM(TANOSHIKAの農業部門)での農業の体験をさせていただきました。

研修の最後の日に社長達と話して来年から支援員として働かせていただくことになりました。後に学校からは2年の契約延長を打診されていて結構悩んだんですが、目的のためにそちらを断って久留米に引っ越しました。

僕は恥ずかしながら卒業してからずっと非正規雇用でした。採用試験にも受からなくて、実のところTANOSHIKIAに来て33歳の時にやっと正社員というものになれました。
教師時代は自分で職場を選ぶことなどできませんでした。
「自分が働きたい場所で、自分が働きたい人と、やりたい仕事をする」。

思えば、この会社に入るために起した行動が、人生で初めての就職活動とも言えるかもしれません。

ーー島川さんの得意なスキルって、たくさんあると思うんですが...なんでしょうか。ご自分で思われるご自身の強みについて教えてください。

文章を書くことや添削・編集して発信することに関しては、この5年で更に磨きがかかったと思います。

SEOに関する知識や情報収集、データ分析も作業の中で経験を積みました。

たくさんのメンバーさんや支援員と協力して案件や広報誌も作ってきましたのでチーム制作の中での調整力もついたと思います。

後はとにかく動いてみる行動力はあると思います。

ーーTANOSHIKAでの島川さんの業務内容を教えてください。

・AKARIでの記事の編集
・会社のHPやSNSでの発信業務
・その他生産活動の管理・運営
が自分の主たる業務です。

島川さんが発信している、TANOSHIKAのHPとTwitter↓

https://twitter.com/TANOSHIKA8455

ーーTANOSHIKAで成功したことってありますか。実績を教えてください。

AKARIでは、最初日に200、月に5000PVもあればいい方だった閲覧数をSEO対策を施したり、メンバーさん達と工夫してこの5年で3倍にしました。
現在は日に500〜700PV、月に1万5000〜2万PVを計測しています。

↓TANOSHIKAが運営しているメディア、AKARI。
島川さんが技術指導、編集長を務めている。
1万5000〜2万PVの大きなメディアに成長した。

noteというSNSでの発信にも挑戦していただき、一人で月間1万PVを計測したり、有料記事の販売も成功させました。この発信活動が久留米市から取材を受けグッチョという雑誌に掲載されたこともあります。

昨年からは広報誌の制作を編集長にも抜擢していただき、社内の全事業所と連携して、会社の事業を社内外に発信する役割を担っています。

外部から依頼を受けてECサイトの運営に関する記事を制作したこともあります。また、
松川さんという当事者の方が起業したtsunagariさんからは、「musbi」というwebメディアでコラムを制作する仕事もしています。こちらはAKARIをモデルに作られたそうです。

AKARIをモデルに作られたmusubi。↓
TANOSHIKAのメンバーも寄稿している。

当事者の方へのインタビューも、「生きづらさにAKARIを灯す会」と銘打って、これまで何回か行った経験もあります。Twitterのスペース機能を使ってオンラインでしました。

その時は、難病のSMA、ネフローゼ症候群、先天性ミオパチーの方にお話を伺いました。

実際のオンラインイベントを書き起こした記事。↓

最近では逆にオファーをいただくこともあり、
「わたし、虐待サバイバー」著者で複雑性PTSDの当事者会の代表でもある羽馬千絵さんという方ともメンバーを交えて対談したこともあります。

「福祉の世界の中だけでしか生きていけない人間にしない」

ーーTANOSHIKAで支援するにあたって、気をつけていることはなんでしょうか。

A型は基本的に就労を継続できますが、弊社の目標は皆さんを一般就労に送り出すことです。
僕は皆さんを「福祉の世界の中だけでしか生きていけない人間にしない」という事を念頭に置いています。
社会人として皆さんを変に甘やかすのではなく、違うことは違うと遠慮せず伝えます。

また、皆さんはここに技術を身に付けに来られますが、それよりも自信をつけることの方がはるかに大切だと僕は思います。
どれだけ技術があっても自分に自信が持てなければ、ここを出て新しい環境に飛び出すのは相当な勇気が必要になるからです。
ここは自分と似た様な境遇の方や理解のある人が多い環境ですし、体調に合わせて仕事ができます。
一歩ここを出て同じ様な支援を受けられる所はないでしょうが、それでも「普通になりたい」とか、自分の根源的な欲求に素直になるには、自信が何より必要です。

ーー支援員でもあり、9人いるライティング部門のリーダーで、AKARIの編集長でもありますね。これらの職業指導員として、ポリシーってありますか。

一言で言うなら変な手加減をしないということです。文章を書いてお金をもらうことは非常に難しいことなので、世間のレベルに皆さんを合わせていくことを念頭に置いています。
AKARIの記事もコピペチェックツールを通して一致率を一定の数値を下回るまでリライトしていただいています。
皆さんの技術を伸ばすために、必要なら難しいことも要求しますし、時には没にすることもあります。時々厳しすぎるという意見も頂きますが、優しくするだけが支援ではないので、その人の技術レベルに合わせてギリギリ超えられる負荷をかけています。

また、皆さんのやりたいことは全面的に応援しています。
皆さんからこんなことをやってみたいという意見が出れば、基本全部挑戦してもらってきています。今回のインタビューもそうです。

会社で作っている広報誌のインタビューも、皆さんと知恵を出し合って質問を考えています。

また、何か皆さんに任せられそうな自分の仕事があれば、皆さんに勇気を持って渡すようにしています。

例えばAKARIに関するSNS(Twitter・Instagram・Facebook)の運用やアナリティクスを使ったデータ分析です。

今は絵本プロジェクトという、AKARIのライターが書いた生活保護やジェンダー、難病など自分の体験をもとにした文章にデザイナーが絵を付けて絵本にして販売する活動も行っています。

こうした挑戦をして、成功体験を積むことで自信をつけて欲しいと思っています。

一緒に事業をやりたい人を探しています!

ーー島川さんの夢は起業ですが...どんな事業をする予定なのか具体的に教えてください。

独立して自分でもA型を運営しようと考えています。何を軸にやるかはまだ模索しているのですが、例えば静岡のわさび農園さんとONE GOの様に協力して労働力の提供や商品開発、マーケティングと販売、海外展開みたいな事業をするのも面白いと考えています。
今日本食ブームで、ワサビの世界的な需要は高まっていますが、農家さんが減っていたりして、生産量が減っています。そこにチャンスがあるのではと思っています。

他にはこれからは中小企業にもっと障害者雇用が浸透していく流れになると思うので、ここでの経験を活かして、障害者雇用を考えている中小企業さん向けのコンサルティング業も、当事者の方達とやってみたいと思っています。
専門家の意見も大事ですが、当事者が何を考えたり寄り添って欲しいかは当事者にしか分かりません。当事者目線での支援や啓発活動が今後は必要だと感じています。

当事者自身が自分が生きる世界を生きやすくするために動いて行くことが重要だと思っています。受け身で待っているだけでは世の中は変わりません。
やりたいことはたくさんありますが、1人でできることは少ないので、仲間を探してます。
この記事を読んで、一緒に事業をやりたいと思った人がもしいたら声をかけて欲しいです。

ーーご自分の人生を振り返って今思うこと...何かありますでしょうか。

振り返ると、ここまで無駄な瞬間なんてなかったんだなと思います。

2019年に病気をして働けない期間があったことも、そうです。
今でも神経痛の後遺症は残っていて、万全の日というのは僕にはなくなりましたが、メンバーさん達の苦しい気持ちも、自分事としてとらえることができるようになった気がします。

ジョブスも言っていましたが、将来をあらかじめ見据えて点と点をつなぎあわせることはできなくて、できるのは、あとから繋げることなんだと感じます。

島川さんが今まで書き続けてきた小説ノートの山

インタビュアー兼、島川氏の部下のあとがき

時々『島川修一』という男が、わからなくなる時があります。

自分は島川さんのことを嫌いになったことはないです。
でも時々、文章や生活態度などに対し、厳しいことを言われたり、きつい言葉をかけられると、辛くなりうじうじしてしまうことがありました。

優しい支援者が多い福祉の世界では、彼の「手厳しい」やり方は、ある意味で『異端』だと思います。

しかし、その向こうには紛れもなく「わたしたち障害者に対しての愛」があったんだなと、今回のインタビューを通じて、初めて気づくことができました。
もしかしたらその私たち障害者に向ける愛は誰よりも深いのかもしれません。

インタビューは初めて自分一人でするということで、ぐだぐだで、そこも色々また島川さんに指摘されてしまいました。

でも、以前のように「島川さんって本当にいつも厳しい」と嘆く自分もそこにはいませんでした。

「島川さんは、本当はこんなことを愛情を持って指導してくださっているのだな」
と、思えるようになりました。

ぐだぐだなインタビューでしたが、それだけでも収穫があったのでは?と思います。

私が就労するのと、島川さんが起業すること。
どちらが先かわからない。
でも、これからもよろしくお願いいたします、とだけ伝えたいです。

島川さん、この度はありがとうございました!

島川さんと繋がりたい方は、ぜひ、こちらから。↓

島川修一Twitter

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