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通読。創世記を読んでみて

7.8月に時間が出来たので、聖書を読もうと決めた。
今までは、聖書をただ読むだけだった。
しかし、聖書を読んで、地図や注解書も開こうと決めた。

そうして7月の半分が過ぎ、創世記を読み終わった。
結果、その時は注解書や地図を開けなかったが、聖書を読み終えて気づいたことがいくつかある。

聖書を読まなければならないと思っていた

信仰者として、当然聖書を読むことは勧められる。これに反対する人はいないだろう。

しかし、聖書聖書聖書と聞くうちに、いつしか聖書は「読まなければならないもの」に変わっていった。最初は、読めば読むほど面白くて読んでいたのに。純粋に次の話が気になって観てしまうドラマのように。

聖書は読みたくて読むものだ。読まなければならないと思って読むと、ただの苦行。目的のない苦行を続けられるほど、人間はできていないと私は思う。

だからこそ、常識・知っているという思いを捨てて、まるで初めて読むかのように聖書を読みたいと思った。

読むたびに新しい発見がある

今回創世記を読んで、神様は法則の神だと思った。というのも、アブラハムにしたことをイサクにし、イサクにしたことをヤコブにするからだ。

例えばヤコブの娘、ディナ事件の時。ディナは他の部族の者に辱められた。そしたらディナの兄が復讐し、その部族を全滅させた。すると神は、別の場所に行くようにヤコブに語られた。

ヤコブの一族が旅立った時、周辺の町々に神からの恐怖が下った(創35:5)。

この箇所を読んで思いだすのは、出エジプト記の話である。イスラエル民族がエジプトから出て行くときのこと。神である主は、エジプトがイスラエルの民に好意を持つようにされた(出エジ12:36)。

他には、妻を妹と偽ったアブラハムだが、息子のイサクも同じことをしているなど。読めば読むほど新しい発見があるのだと気づかされた。

まとめ

聖書は楽しく、初めて読む気持ちで読もう。
義務でやっている限り、それはあなたのためにはならない。

もう知っているではなく、神が新しい気付きを与えてくださると信じて読む。そこに、信仰者としての聖書との向き合い方があるように思う。


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