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自己紹介~神を信じるようになって

(2021年11月23日更新)
私は大学生の時に聖書に出会い、人生が激変しました。

しかしキリスト教にはこれまで全く縁がありませんでした。この記事では自己紹介も兼ねて、生い立ちから最近までの、聖書を信じてどう変わったかをご紹介します。

ちなみに、救われたきっかけは自己啓発です。「私はできる」と連呼するセミナーに限界を感じました。同じ疑問をお持ちの方、聖書に興味がある方など、参考になれば幸いです。

1. 幼少期

幼い頃は学ぶことが本当に大好きでした。その頃の日課は、日めくりカレンダーを読みひたすら考えること。わからない言葉が使われていれば即調べ、難しいテーマの日は一日中考えました。

性格は内気。繊細な子でした。人にうまく自分の説明を伝えられないため、喋ること、主張することが極端に嫌い。いつも人を避けるように生きていました。

自己肯定感の低い子。それが当時の私をぴったり表しています。

「生きていても別に良いことはない。でも死んだらもっと人に迷惑がかかる。それならまだ、生きている方がましなのかな…。」

死んだら困るからという理由で惰性的に生を選択する。ただ、心臓だけが、私を動かしていました。


2. 大学生活

18歳。今まで死んでいたような私にとって、大学生活は希望そのものでした。

例えば、ありのままの自分を出せる友にはじめて出会いました。互いに気をつかわない貴重な存在。少し、人嫌いが緩和しました。


さて、あなたは大学生の頃、将来の夢は決まっていましたか?

私は夢がなく、大学で決めようともがきました。その内の一つが英語。授業は難しいものを選んだり、留学に挑戦したりと、積極的に動きました。いわゆる自分探しです。

大学生活も後半になると、自分探しは自己啓発に変わります。「もっと自分を成長させたい!」と足しげく通ったセミナーは、やがて運営側に回ります。

お金や時間、持てる全てを自己啓発に費やした私。反面、セミナーに行かない人や学ばない人を見ては心の中で見下していたのでしょう。

「なぜもっと頑張らないのか」と。

自分でも無意識の内に、当時は人を裁いていました。相手の欠点しか目に入らなかったのです。

あの頃、気持ちだけはまるで神になったかのようで、自分は◯、他は×とジャッジしていました。

 

3. 聖書との出会い

聖書を知りたいと思ったのは、就職活動に迷った時です。進路に悩む私に、先輩が一言。

「聖書には、就活だけじゃなくて、人生のあらゆる問題の解決策がのっているよ」

「ちょうど今日、私も学ぶところなんだ。一緒にどう?」

……音だけが耳から耳へ。何の話かよくわかりません。しかしこんな偶然はないと思い、そのまま学ぶことに。

(イエス・キリストって、田中太郎みたいな名字 + 名前じゃないんですね笑)

教養として学んでいました。


大学3年の冬、聖書に出会ってしばらくのこと。私は塾講師として大いに失敗しました。外は暗く、闇がどこまでも続きます。

「はぁ……。私には愛がないからだ。」

気落ちは嘆きに変わり、いよいよ狂ったように泣いていた頃、先輩の話を思い出しました。祈って聖書を開いたら、ぴったりの箇所だった話を。それなら私も、と藁にもすがる思いでこう言いました。

「神様がいるなら、どうか私にも示してください。教えてください。私には愛がわかりません。愛って一体何なんですか!!!」

ーこれで神様が答えてくれなかったら、もう、神様なんて信じない。ゼッタイ。

糾弾する勢いで開いたページ。ある箇所が目に飛び込んできました。

ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。
ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。(雅歌 1:15-16)

以下「あなた」がどんなに美しいか、言葉を尽くして誉めちぎられています。

これが、神様の…愛……。

嘘に嘘を塗り重ね、もはや本当の自分がわからない。生きている価値なんてない。誰も自分をわかってくれる人なんていないと思っていた私にとって、それはあまりにも突然の、高価すぎるプレゼントでした。


4. 幸せになるための就職活動

神はいる。そう確信しても、罪や救い主の話はまだよくわかっていませんでした。大学4年になる頃、就活を理由に聖書の学びから離れます。

当時、何を犠牲にしてでも入りたい会社がありました。「あれがやりたい!」 なんて、これまで思ったことさえない私。第一志望の会社に入ることは、はじめて見つけた夢のようなものでした。夢を叶えて幸せになる、そう思っていたのですが…

結果は不合格。生きる望みが絶たれます。


さあ、幸せって何でしょうか。
何のために生きるのでしょうか。 

今まで自分探しに没頭していたのは、この問いに答えたかったからかもしれません。働いて夢を叶えるのが幸せだと思っていましたが、真っ向から否定された気分でした。

どうすれば幸せになるのか。振り出しに戻って考えていた時、あることが思い浮かびました。

………ん?……もしかして…聖書?

就職活動の前に興味本意で学んだ聖書。就活のために一旦学びから離れていまいた。もしかして、答えはここにある…?

そんな気持ちで聖書がまた学びたくなりました。


5.  聖書を信じるまで

聖書を学んでみた
→神の愛を知る
→就職活動で敗北
→聖書を学びたい!

聖書に対する思いは、このように変化していきます。

ちょうど聖書を学んだ後に骨折し、肝心の就活は第一志望の会社に落ちる。プライドも夢も砕かれた私にとって、聖書の言葉はすんなりと入ってきました。

クリスチャン(イエス・キリストを自分の救い主と信じる人たち)の若者の集いに参加した時、「神は愛」「愛をただひとつの基準とする」そんなメッセージがされました。

①神のひとり子イエス・キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかられた
②死んで葬られた
③三日目によみがえられた

幸せを求めて就活を頑張ったけど、答えはなかった。でもきっと、探していたものはここにある。

神様は自分のひとり子を十字架にかけるほどに私たちを愛された、と話がありました。それなら、愛である神様に人生を懸けてみよう……!

それが救い主イエス・キリストを信じた瞬間でした。

(補足)
イエス・キリストは、私たちの救い主です。
キリストの十字架の死と復活を信じる者は、父なる神との和解を得、死からいのちへと移されます。

電車の中、私はイエス様を受け入れる祈りを心で祈りました。すると、頭に2つのイメージが突然流れてきました。

一つは本のしおり。「砂の上のあしあと」という、ある信仰者の話が書かれたものです。先輩に就活相談する前の、大学2年の時に買いました。

もう一つは、私と牧師の二人を上から見ている図。当時、神様が信じられないと、何度となく牧師に疑問をぶつけました。

つまり、頭に流れてきた二つのイメージの意味はこう。

「わたしはあなたが思う前からあなたを導き、あなたが苦しい時もずっとそばにいたよ」。

神様からのメッセージです。

勇気を出して告白したら、なんかすごい愛が帰ってきました……。神様と私が両想いになった瞬間。


6. 信じて何が変わったのか

聖書を知り、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として受け入れると生き方が変わります。私を愛してくれる神様に希望を見いだせるからです。

例えばこんな価値観に支配された時、あなたならどうしますか?

・自分には価値がない
・自分は愛されていない
・お前は幸せになる権利などない

キリストを信じる前後で違うこと、それは不安を感じたときに自分で頑張るか、それとも神様に委ねるかです。もっと言うと、恐れから行動するか、神の愛に満たされて行動するかです。

キリストを信じる以前は、自分の欠けを満たそうと必死でした。恐れから、ある意味完璧になろうとしていました。

一方神は、私がどんな状況でどんな感情を抱いているのか全てご存じです。私が神様に喜ばれないことをしても、神様は変わらず私を愛してくれます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書 3:16)

私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙 8:39)

私以上に私をご存知で、どんな自分でも変わらず愛してくれる裏切らない救い主イエス・キリスト。
このキリストに受け入れられ、キリストによって神に受け入れられているという、何とも言えない安心感があります。その安心感があるからこそ、私はどんな状況でも幸せだと言えるのです。

しかも神様は、わたしの意思を尊重してくださるお方。無理強いなさることは決してありません。


7. 神にある希望とは

このように神様イメージが変わる度、神は真実で正しいことを覚えます。同時に、自分の間違いに気づかされるのです。

神は怒るのに遅く、恵み豊かですから、私の間違いを優しく諭されます。私を苦しめるものから私を解放したいからです。

人が行動する動機は、義務ではなく愛。

目上の人は敵ではなく、あなたに祝福を与えたい存在である。

孤独を感じる時も、神様が一緒にいてくれる。

この世で幸せに暮らすのがゴールではなく、天国で永遠に暮らすための準備を今していること。

今までは欠けをうめようと階段を上っていました。しかし神に受けいれられている安心感から、今は欠けをそのまま見ることができます。弱さはあなたをあなたらしくするものです。

救い主イエス・キリストはこう言われました。

わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書 11:25)

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカの福音書 21:33)

死んだら終わりではありません。今この瞬間、私たちは神様の愛を受けて喜びながら歩めます。

そして神様との関係は、死んだ後も永遠に続きます。この変わらない神こそが、私たちの希望です。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
(コリント人への手紙 第Ⅱ 4:18)

あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。(ペテロの手紙 第Ⅰ 1:21)


ちなみに、自己啓発やスピリチュアルは、結局自分に信頼を置いていると思います。自分を強くすることで誰にも打ち負かされない者になるのだと。

ではそんなに自分とは完璧なのでしょうか?

自分の弱さを見ず、むしろ弱さをカバーすることに全力を費やす。それは、いつまでですか?

終わることのない登山は、自分を騙して満足させるだけ。自分に信頼を置いていると、自分がこけたら終わりです。

この考えで生き続けることはできない。私はそう思いました。実際、いつまでたっても満足感は得られない、どころか次第に人を裁くようになったのですから。

永遠に変わらないもの、それは自分ではなく真の神、創造主です。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙Ⅰ 1:5)

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル人への手紙 13:8)

本当の幸せをずっと求めていた私は、自己啓発から神を信じるようになりました。


8. これから

神様はあなたを愛するが故に、あなたにたくさんのヒントを与えられます。しかし従うのは義務ではありません。従うか従わないかは選択できます。

聖書には、神様は自分の愛する子にサソリを与えるような神ではないと書かれてあります。ですからわたしは求めました。神様を想いながらできる仕事を。自分にあう仕事を。

祈った結果、神様からの答えはライティングとナレーションでした。

昔は自分の意見を伝えることすら嫌がったのに、祈って仕事が与えられた今、不思議と納得しています。楽しくてしょうがないからです。

それに、何でも溜め込みがちな私にとって、書くことや詠むことは自分の感情を吐き出す手段にもなります。

神様は苦しかった経験も用いて、喜びに変えてくださいました。


ということで、このnoteでは聖書に出会ってから人生が変わったことや仕事など日常を呟きます。つまり信仰という軸を元に自分らしく生きる私の雑記ブログです。

最後までお読みいただきありがとうございました。



救い主イエス・キリストを受け入れたい方は、以下の三つを神様に向かって信じますと告白しましょう。どこで祈っても、神様は聞いてくださいます。

①神のひとり子イエス・キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかられた
②死んで葬られた
③三日目によみがえられた

ハーベスト・タイム・ミニストリーズという団体が、動画や文章でわかりやすく聖書を教えています。参考にどうぞ。


これを読むあなたに、神様の豊かな恵みとあわれみがありますように。

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