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山岳紀行 青春の常念岳

 *河童橋周辺
 河童橋から眺めた穂高連峰は、らい落な稜線を明るく晴れわたった
群青の空に浮かびあがらせ、梓川に近い明神岳の岩壁も、朝陽にあか
あかともえたぎって美しく映えていた。
 昔なじみの西糸屋・五千尺の旅館は、小さな灯りをともしたままで深い眠りにあったが、早朝の散策を楽しむ人々の姿を梓川沿いや河童橋の上にちらほらとみられた。
 その河童橋の下を流れる梓川の底石までが透けてみえる清澄な水が、最近とみに汚染されていると聞いた。
 学生時代から上高地を一つのベースとして、槍ヶ岳・穂高連峰へ登る途次、梓川の水を水筒に満たしたり、冷たい水を手で掬って飲んだことの覚えがあるだけに、俄かには信じられなかった。
 しかし、梓川の汚染は起こるべくして起こったというべきかもしれない。河童橋・梓川・穂高からすぐに連想される上高地は、今ではすっかり温泉遊楽郷並みの賑わいをみせ、観光地へと変貌しているからだ。
 例えば、河童橋から梓川を挟んでの建ち並んだ宿・水洗トイレを設備した山小屋などと矢つぎばやに近代化へと様変わりし、バスや自家用自動車を連ねて上高地を訪れる人たちが年々増えていることなど…と。
 このことは、上高地の発展のためには良いかもしれないが、上高地特有のイメージが損なわれるように、自然破壊へと一途に突っ走っているこになるのを忘れている。
 それだから梓川の汚染という事実は、商売一辺倒に明け暮れて自然破壊の一翼を担った上高地周辺の人々に、当然な報いとしてはねかえってきた現象だったにすぎない。
 上高地の雰囲気も年々変わっていった。ザックを背負い、登山姿で闊歩できた時代はすでに昔のことだ。背広にネクタイ姿が相応で、アルピニスト姿が場違いな感じをもつのは決して錯覚でないことを知らねばならなかった。
 上高地の宿も変わった。下山したばかりの汗臭い山男たちを迎えいれてくれる暖かい宿が少なくなったことだった。玄関払いされる惨めさを辛うじて慰めてくれるのは、西糸屋の肌に浸みこむお湯であったというのも淋しいものだ。

 *徳沢小屋への道
 最近、私は釜トンネルを抜けて上高地へ入ると、河童橋から穂高連峰の稜線を眺めるだけで、小梨平をそさくさと歩いて徳沢へ向かってしまうようになった。梓川沿いの白樺やダケカンバの木々の間の道を歩きながら、今も変わらない静かな息吹きに安堵するが、白い川石の間を遠慮がちに流れる梓川の瀬音を耳にするといじらしくなってしまう。
 一度汚れた水や破壊された自然などは、結局は人間が自分の首を絞めることであり、自分ら眷(けん)族を殺す破目になっていくのは最初からわかっていたはず…。
 静かな林道を歩き古びた明神館などの宿をすぎるとすぐの右手に徳本峠入り口の出会いだ。峠へ向かう道がうっ蒼とした樹林の中へのびている。かって、島々宿から徳本峠を越えて上高地へと下ってきた道だ、徳本峠越えはいつも岳友たちと一緒だった。その岳友たちは、仕事や家庭の事情から一人去り二人去って、気がつくと私だけが取り残されていて彼らと歩く機会がなくなっていた。
 この4,5日前だった。何人かの岳友に上高地から蝶ヶ岳・常念岳を越えて、大天井岳・燕岳を経て中房温泉への山旅を誘ってみたが、良い返事を聞けず一人の山旅となった。急な誘いであったのと、長い間山歩きから遠ざかっていたことなどから無理だったのかもしれない。
 けれど、八王子から汽車に乗ることを知った岳友の一人が、私の好きなブランデーと濁り酒を抱えて見送りに来てくれたのには、年甲斐もなく胸に熱いものがこみあげてきた。
 岳友らと徳本峠を歩く機会は果たしてないのだろうか。思えば、徳本峠越えは上高地・槍ヶ岳・穂高への苦しいが楽しい道であり、華やかな青春の息吹きであったのだが…。
 梓川沿いの道もやがて牧歌的な雰囲気の溢れる徳沢の草原に出る。木造二階建ての徳沢の小屋で軽い朝食をとり、長壁尾根の道へと入って行く。

 * 蝶ヶ岳への登り
 長壁尾根は樹林帯に覆われた薄暗い道。木の根がむき出しに張る。無造作に転がる石、ジグザグとつづく急な道を登りつづける。
 僅かな木漏れ日が苔むした岩にふりそそぐ。朝露に濡れた木々の葉に触れ、微かにゆれて光るとき爽やかな気分にひたる。
 陽だまりの長壁山から木の間越しに穂高連峰を望む。しばらく登っていない前穂高、ジャンダルムの岩場の感触が懐かしく、西穂高の頂稜と独標の岩々が脳裏をめぐる。
 小さな蝶ヶ池、さざなみは微かな風の渡る証だ。這松の間の細い道、散り敷く砂岩石を踏みしめて登りつめると、大船の甲板のような感じの蝶ヶ岳頂上だ。西を眺めれば槍・穂高のらい落な山稜が大きく波立ち、北に眼を向けると槍に似た蝶槍の彼方に、常念岳の豪壮な白亜の頂稜が陽に眩しく輝いている。
 頂上の尾根のくぼみに建つ低い屋根をもった蝶ヶ岳ヒユッテ。開放された扉、うす暗い山ヒユッテの中、淋し気なカウンター上の赤電話、ダイヤルを回す。中央線の山々を一緒に歩いたFの声が弾む。
「今、どこに居ると思う」
「俺。神様じゃねえよ」
「蝶ヶ岳にいる。ひとりで登って来た、これから常念越えだ」
「なぜ、俺に声をかけなかったんだ」
 Fの怒りの声が受話器に響く。”君のことをすっかり忘れていた”と出かかった声をのむ。
「まあ、いいサ。常念は君の青春の夢宿るところだ。君一人で登って然りの山だからな」
 Fに大変すまないことをしてしまった。最近、人間的な幅が狭くなって、大切な友人のことを忘れてしまうことが多くなってきているようで…だが、Fのいうように常念越えは、私個人の甘酸っぱい青春の思い出が深いのは事実だ。
  考えめぐらせば、岳友たちに常念岳を誘ったとき良い返事をしなかったのは…青春の血をたぎらせた常念岳の旅は私ひとりにさせてやりたいというキザっぽい友情だったのか…。
 しかし、それは甘酸っぱい私の遠い痛みであるだけで、淡く消え去った感傷をいつまでも追っている年齢でもないのだが…。

* 二人だけの常念岳
 蝶槍を越え、深い渓谷を渡り、肩をいからせたような常念岳の急登の南尾根を登りつめて行く。張り出した尾根に白い砂岩石が重なる。散り敷く細かな石に足元をすくわれそうになりながら登りつめれば,重畳なす岩積みの常念岳頂上。                          

常念岳山頂の祠

  頂上の岩に腰を下ろして槍・穂高の山なみを眺める。昔、私の横に並んで槍・穂高の山なみを眺めた女(ひと)は二児の母となり、和歌山の港町に住んでいる。 昭和30年代の後半、私にとってははじめから実りもしないのに、切ないほど胸を痛め、息のつまるような感情の昂ぶりで、若い心を燃えたぎらせた恋だった。常念岳で出会い、常念岳で別れたのはままならぬ人の世の運命だった。嫁ぐという数日前に、徳沢から長壁尾根を登り、蝶ヶ岳・常念岳を越え、二人だけでの最後の山歩きをしたのは、彼女の希望だった。
「常念、二人で何度登ってきたかしら」
「……」
「三年間、12回なのよね」
「よく来たもんだね」
「これが、最後に…」
「これからは、僕ひとりの常念かな…」
「常念岳は忘れない。二人だけの常念よ」
 二つ年上のその女(ひと)のまぶたに涙のひかりを見たとき、二人でいる岩積みの頂上が崩れ、私たちを深い谷底に落とし込め、積み重なったケルンをして永遠に裂くことのないようになってほしい…と。 
 常念岳の恋は、二十三歳のはかない夢と幻だった。今、常念岳の頂上に腰を下ろして穂高連峰を眺めていると、
「山の好きな人と一緒にいたかった」
と、小さく呟いたその女(ひと)が傍らにいるような錯覚にとらわれる。       常念岳は、蝶ヶ岳・大天井岳からは豪壮な山稜でもって聳えて見えるが、西岳からの眺めには流麗なやさしさに溢れている。 
 一つの山で、一方が男性的であったり女性的に見えたりするのは、常念岳の特異な山容であって、それ故に、私たちを強く引きつけてやまない。 
 常念岳の頂上にしばらくいた。常念岳の白亜の頂上に登れば、不思議とこころの安らぎを覚える。そこには、自然の織りなす常念岳からの眺望の美しさがこころをとらえて放さないからなのかもしれない。やわらかな陽が夕陽となって槍・穂高の稜線の西に沈みはじめる頃、やっと重い腰を上げ常念乗越に建つ小屋に向かって下って行った。

赤尾屋根が目印の常念小屋

* 常念小屋泊まり 
 常念乗越に建つ有人の常念小屋は古い木造の小屋は新築になり、地下水をモーターで吸い上げ、トイレは水洗に変わっていた。水洗の小屋に泊まるのは梓川汚染につながるのだろうか、との不安もあったが完備された水洗はその不安を振りはらってくれた。泊まった部屋は二人部屋だった。窓越しに槍・穂高が見える。夕陽の沈んだ後のアカネ空に、らい落な山稜を浮かびあがらせる槍と穂高連峰は、美しい絵を見ているようにこころを放さない。    
 窓際に立って槍・穂高連峰を見つめていた。
「これからの常念越えは、僕ひとりの旅だよ」 
 こんなことをいった記憶は消えることはない。それはまぎれもなく、常念越えは私ひとりの旅だった。 
 常念乗越から仰ぐ夜空に大きく明るい星のきらめきがあった。底冷えのする風の冷たさ、ヤッケの襟をたてる。遠く小さく見える須佐度の町灯り。明日は晴れるだろう。少し早めの旅立ちだ。 
 部屋に戻ると相部屋になった青年は深い眠りにあった。
「常念岳はいい山ですね。いつもは穂高から眺めていて、美しい山だなと思っていたのです」 
 名古屋から来た青年の挨拶だった。日焼けした顔、白い歯、屈託のない笑顔が若者らしかった。青年は大天井岳・西岳・東鎌尾根を越えて槍ヶ岳に向かうといってた。私は大天井岳まで同行することとなった。ひとり旅の気安さだった。

* また来る日まで
 うす暗いうちに青年から起こされた。常念乗越から東方に上州の浅間山の山影が眺められ、雲の果てはオレンジ色に燃えはじめていた。足下に一ノ沢、二ノ沢から沸き立つ雲、空は濃い藍色にひろがりつつあった。
 冷やりとする朝の山気に触れ眠さも消えてしまった。重いザックを背負いなおしてから、青年の後を追ってジグザグつづく道を登って行く。
 鋸歯のような横通岳の峻峰、吊尾根に支えられた東大天井岳と山裾のお花畑、左肩に槍、穂の山脈と背後に常念岳を立ち止まっては眺めながらゆるやかな登りの道。カール状の斜面で餌を食むカモシカ。
「穂高を歩いていて初めてカモシカに会いました」
 青年の少し興奮した声、望遠レンズをのばしてシャッターを切る。大天井岳は近い。木造の町営大天井山荘、相変わらず屋内は暗く殺風景だ。若い夫婦の管理人、奥さんは身重だった。昨日は4人の宿泊客だったという。客の一人が、神戸から来たHさんで、一足違いで槍に向かったとわかって、会えなかったのが残念だった。
 彼は、たしか66歳になる筈だが、相変わらずの健脚に恐れ入る次第だ。Hさんに初めて会ったのは、四年前、彼が職場の仲間と燕岳から表銀座を歩いた際に常念岳で宿を共にした時だった。
 毎年の9月中旬頃、大天井岳からの日の出を仰ぐことを楽しみとしている人で、顔見知りとなってから個人的な親交がつづいていた。
 大天井岳の頂上に青年と立つ。狭い山頂だが展望は素晴らしい。北アルプスの山々をどん欲に眺めることができる。槍ヶ岳が身近に見え、青銅の鎧を身にまとったような北鎌尾根の鋭い岩峰群が朝陽に照らされて不気味な輝きを放っていた。
 青年と大天井岳で別れた。槍ヶ岳山荘でHさんに会ったらと、メッセージを託し、喜作新道を切通岩へ向かった。その途次、幾度も常念岳を振り返った。今度は、いつ登ってこれるかわからない。後ろ髪を引っ張られるような気持ちを振り切るように、大天井岳の東の山腹を縫うように滑りやすくなった道を駆けるように下る。
 そして、一気に燕岳から合戦尾根を下って、ひなびた山あいの馴染みの秘湯中房温泉で身もこころも洗い流してしまおう。追憶をすてねばならない。未練たらしくいつまでも抱くことがあっては常念岳が曇って見える。常念岳は過去の私の青春の証としてとどめて置くことに…。
         (現在の梓川の水質は自治体などの管理・水質検査などできれいです)
                   
      なかはら しんぺい復刻版
                                                                         写真引用:
                       YAMA-GUIDE
                                                                                    YAMA HACK
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