アウトローの弱者への寄り添いについて:創作のための戦訓講義61
事例概要
発端
※ここしばらくこの手の映画を見ていたことで考えた。
アウトローと弱者の寄り添いについて
個人見解
アウトローと弱者
ここしばらく見た映画の構図は、社会的には善とは言い切れない主人公、あるいは一応善側の人間だが、破天荒で型破りなところのあるいわゆる「アウトロー」系の主人公が登場した。その中で思ったのがアウトローと、彼らが守るべき弱者の存在だ。
『追撃者』なら主人公の借金取りジャックと、彼の姪であるドリーン。『ヒート』や『ダーティハリー』なら刑事ヴィンセントとハリー・キャラハンに守られる被害者の市民たち。『イコライザー』なら元CIAのマッコールさんと少女娼婦のテリー。『コブラ』ならコブレッティ刑事とイングリッド。アウトローにはおおむね、守るべき弱者の存在が付随する。
腕っぷしに自信があるが、ルールを守るとは言い難いアウトローの主人公たち。彼らがそれでも主人公でいられるのは「弱者を守る」という明朗な善性を作中通して発揮するからだ。なんだかんだ、、ただの好き勝手する無法者よりもヒーローの方が鑑賞者の共感を得やすい。
とはいえ、しかし。そこで用意される弱者の存在が、「寄り添うべき相手」としてよりも「主人公をカッコよく見せる道具」としての機能に比重が依っているのではないか、というのが今回の指摘だ。つまり「弱者に寄り添う善性」よりも「破天荒だが弱者に寄り添う優しさを見せるカッコいい俺」になっているのではないかという話。
ポストで述べた通り、ここでは主人公の意図はあまり重要ではない。製作陣の意図も重要ではなく、そうした構図、性質を持ちうるという話だ。男がそのドラマスティックなヒーロー性を発揮するために弱者(概して女性)を利用する構図が多くの作品に見られるのではないだろうか。
こうした女性表象は例えば「冷蔵庫の女」という指摘もされている。「冷蔵庫の女」は言ってしまえば男性主人公を駆動させるためだけに女性キャラクターを惨たらしく殺害することだが、今回の私の指摘もまあ似たような図式である。女性は男が夢を見るための道具ではない、ということだろう。
ポストに無い具体例
各作品についてはポストでも述べているが、この辺は全体的な構図の話だし、各作品ごとの描写によって受ける印象も大きく変わる。ただやはり、構図としてそうした性質を持つ以上、可能な限り回避する方向に進んでいくのが適当だろう。
その点『ジョン・ウィック』は上手で、主人公の殺し屋ババガヤことジョン・ウィックの復讐動機は亡くなった妻が送ってくれた犬だ。従来の映画なら妻が犠牲になるところ、妻は既に病死しているという絶妙なずらしが適格だ。確かに「冷蔵庫の女」は回避したいが、だからといって突拍子のない動機では鑑賞者が置いてけぼりを食らう。従来的な復讐の動機の延長線上にありつつも、女性を男性ヒーローの動機にしない、というラインを守る繊細さが光る。本シリーズはその後、ジョンがかつての仕事を受けた際の借りから追い詰められる展開となり、妻の死が彼の行動動機から離れてあくまでジョン自身の問題になるのも上手い。それでいてジョンが生き残ろうとあがくのは妻との日常との記憶を守るため、というラインできっちりジョンの妻を愛する思いをないがしろにもしない。
当該ポスト後に見た作品でこの点、逆に最悪なのは『L.A.コンフィデンシャル』だろう。この作品、全体的に主役たるロス市警の倫理観が全体から細部に至るまで終わっているのでツッコミどころしかないんだが……。
特にひどいのは中盤。主人公のひとり、武闘派の殺人課刑事バド・ホワイトが犯人宅に突入する場面。物語の本筋であるカフェの大量殺人で容疑者に挙がった黒人三人組を逮捕したロス市警だが、彼らが別件で女性を拉致し、強姦していることが判明。その女性を別の男のところに運んだと証言したので確保に向かう。このとき、犯人はテレビを見て完全に油断しており、バドが銃を持って背後に立ったことにすら気づかない。ようやく気付いたところでバドは犯人を射殺。その後、おもむろに自分がいた側の壁を銃で撃つと、その銃を犯人に持たせた。正当防衛を偽装したのだ!
強姦被害者の女性が救急車で運ばれる際、もうひとりの主人公エド・エクスリーが詰め寄る。その女性は犯行現場のカフェで拉致されたと思われ、彼女が何時に拉致されたのかは、黒人三人組のアリバイに関わるからだ。しかしバドはエドを引きはがし、救急車を病院に向かわせる。エドの詰問が出世欲で事件解決の手柄を欲しているためだと決めつけて。挙句に「正義を貫いた! それが男の仕事だ」と開き直る。こわー。まさに女性、ひいては弱者を「寄り添い守るべき相手」としてではなく「自分のカッコよさを演出する道具」としている例だろう。
この点、従来のアクション映画に痛烈な皮肉を浴びせたのが『ハードコア』という作品だ。主人公の一人称視点で描かれる映像はそれこそシューティングゲームのようだと話題になったアイデア重視の作風。しかし主人公の視点と鑑賞者の視点を同一にするというアイデアが構成を大きく縛り付けるため、結果的にある種の皮肉な結末を生み出した。
主人公は目が覚めると手術台の上にいた。妻を名乗るエステルという女性が彼の負傷を治し、義肢を取り付けてくれたのだが主人公は喋れないらしい。そんな折、彼らを襲撃する謎の組織。逃げ出したところ、主人公は自分たちのいる場所が遥か天空にある研究施設だと知る。逃げ出せたが妻は囚われてしまった主人公が、敵組織に抗する人たちの助けを借りて妻の奪還に動くという作品。
前述のとおり一人称視点に縛られる本作は、そのために主人公は「状況が分からない」という設定を付与し、鑑賞者と物語に対する状況理解のレベルを統一した。一人称視点の映画というアイデアによって必然的に導かれる作品の構造が、終盤の結末において従来の映画に対する皮肉を導くという構図は、おそらく意図しないものだろうがかなり興味深い。ネタバレになるので詳しく語れないが、ぜひ見てほしい。
補足:映画情報
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