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故郷が壊れた日 --阪神淡路大震災から28年

朝、なんか遠くの方で電話が鳴っている気がする。あっ電話だ。あれは・・・携帯だったんだろうか、家の電話だったんだろうか。はっきり覚えていない。半ば寝ぼけながら取った電話。でもその声はハッキリと覚えている。入ったばかりの会社の先輩のカメラマンからだ。

先輩「AJちゃん、ちょっと大変なことになってるよ。」
私「あっ、ああ、おはようございます。えっ?どうしました?」
先輩「実家神戸じゃなかったっけ。まあ、いいから、すぐにテレビつけて!」

なんかただごとではない気がしたが、まだ眠いな、面倒臭いな、という気持ちのままテレビをつけた。・・・むむ?なんだ、こりゃ。一気に目が覚める。ヘリコプターの映像だ。

街のあちこちから煙が上がっている。これ、神戸やん。私は地図マニアなだけあって、上空からのヘリショットでも街の形を見たらすぐにわかる。ヘリコプターに乗っていたのはアナウンサーではなくカメラマンのようで、しかも準備なく飛び乗ったようで、眼下で起きていることをどう伝えたらよいか戸惑い、またこれがどこなのか地理がよくわからないようだ。もどかしい。私は思わず独り言を叫んでいた。「そこ、その場所は深江の辺りや、東灘区の。なんじゃこりゃ、高速倒れてるやん・・・」

それからのことは、到底書ききれない。
プライベートで言えば、実家の電話はつながらず、当時はネットなんて普通には使わず、早速神戸に向かったものの、電車は西宮北口までで、そこから国道を歩き・・・・その途中、車で避難してくる家族と偶然出会い・・・ 

祖父の家は倒壊。幸いかすり傷程度で済んだ祖父。心配する家族に「大丈夫。戦争はもっと怖かった」と言ったとか。

その後、プレハブの取材拠点の埃だらけの床に寝袋で寝ながら、各地の避難所や被災した各地を回った日々。倒壊家屋の救出現場、葬儀会社に無数の棺が置かれていた光景もいまだに脳裏に焼き付いている。

でも、なぜか写真が今自分の手元に残っていない。今のようにスマホもなかったしカメラも始めていなかった。でも小さなカメラは確か持っていったはずだったんだよなあ。何枚かは撮った気もするんだけれど、とにかく当時の写真が残っていない。今となっては本当に残念なのだけれど、多分その時はそんな余裕がなかったのだろう。

今手元にあるのは、美しい最近の神戸の写真ばかりだ。でも、この同じ街が間違いなく崩壊していた。

なんか思い出があまりにたくさんありすぎて、書ききれないし、思い出すとすごく疲れる気もする。とにかくどこにいようが、この日は犠牲になられた方を想像する日にしている。

神戸の震災で浮かび上がった数々の課題は、その後の各地の防災に生かされている。避難所の在り方も、復興住宅の在り方も、心の問題も。また、ボランティア元年とも言われ、私の知り合いも積極的に行動して驚いたのを覚えている。

今、東京に住んでいると、目に見えないプレッシャーをいつも感じていることに気が付く。そう、大地震が来た時にどうするか。絶対に来ると言われるので、来るならむしろ、人的被害がないやつが来て、あと100年近く安心させてくれないか、とも思う。日々の何気ない行動でも、今起きたらどう動くか、と、どこかで防災を常に意識している自分がいる。

それはきっと、故郷が壊れた現場を見たからだろう。それは無意識のうちにとても自分を疲れさせていることにも気づく。

でも明日、面倒くさがらず、家の防災用品をもう一度確認してみよう。

何が何でも生き延びないといけないから。


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きょうも最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ

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