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会津戦史 慶応4年8月29日

8月29日(新暦10月14日)
会津兵は反撃に打って出ました。鶴ヶ城内から佐川官兵衛率いる決死隊1千名が融通寺町口、桂林寺町口から出撃し、西軍諸兵に猛攻をかけました。

隊は二手に分かれ敵を挟撃する形となり、槍対銃という構図ながらも会津優勢となり、戦闘は城の北西にある泪橋まで広がり、一時ここを占領することに成功しました。

西軍諸兵は長命寺に逃げ込み、会津兵は更にここへ猛攻を加え長命寺も占拠しました。が、ここから西軍土佐兵による大反撃が始まり、大乱戦となりました。

ここで、なんと佐川官兵衛は敵の正面に立ち白刃を振って仁王立ち!ものすごい気迫で隊を指揮したそうです。しかし、佐川隊渾身の奮戦も時間の経過とともに兵の損耗が激しくなり、やむなく撤退となりました。

この長命寺の決戦にて、会津兵の死者は百数十名に及び歴戦の猛者も数多く戦死してしまいました。

佐川には大きな怪我はなかったのですがこの戦いの責任を感じ、以降は城に戻らず遊撃隊となって各地で転戦していくことになりました。

戦死した東軍兵の懐には「八月二十九日戦死」と書かれた血判つきの書が入っていたそうです。正に決死の覚悟だったのです。


一方、会津の西方越後口では、只見川を挟んで両軍が対峙していました。さすがの西軍も天険只見川渡河はなかなか成功しませんでした。ここで西軍は兵をわけ南北に展開し只見川攻略に臨むことになるのですが、以降しばらくここはこう着状態となりました。


佐川官兵衛

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